炎の中をクゥナは一人歩く。

 おぼつかない足取りで、一歩一歩踏み出す度に倒れこみそうになる身体を必死に支えている。目深に被ったフードから除き見れる顔色は蒼白。明らかに火災とは関係無い、彼女自身の体調に因るものだ。

 壁に凭れ掛かりそうになって思い留まった。

 無意識にさすったのは数分前に壁に触れ、火傷をしてしまった指先。そしてその指がまるで老人のように干乾びているのを見てクゥナの表情が曇る。

「あんまり……時間はないかな…」

 それでもやるべきことがあった。

 この『大火災』はおそらく”ルモリアの因子”から生じた過去の再現の一端。通常の手段では消化し切れない。消しても消しても火は燃え盛り、燃やすだけの建築物が無くなったとしても火災は収まらないだろう。

 それが”神の因子”。事態を収拾するには、物語通りに事を進め水竜の力で以って火を消し止めるか、基点となる”ルモリアの因子”を消失させるか、あるいは。

 現代に水竜を呼び込むとなれば、過去の再現だけでは済まされないだろう。無論、正史通りに町は崩壊する。しかし竜王にすら連なるとされるかの水竜を、不完全な”ルモリアの因子”だけで御し切れるとも思えなかった。

 本来のルモリアならば、水竜と心を通わせる事が出来たのかもしれない。けれど『ルモリア』は別だ。あくまで因子に呑み込まれて意識や記憶、姿形が混濁しているだけで本質的にルモリア本人ではない。

 加えて、竜王の系譜が持つ力は強大だ。

 より強い力に物事は傾いていく。

 ”神の因子”に流されない、ただ強大な力を持った竜の出現は考えるだけでも恐ろしい。町一つ、国一つの問題ですらなくなってしまう。

 思い、角を曲がろうとしたクゥナの歩みが止まった。

 顔を俯かせたまま、周囲の音を探る。逃げ惑う狂騒とも、燃え盛る炎とも違う、この『大火災』で明らかに異質な音が混じっていた。

 鉄の音、これは――――


「ここでお前に動かれるのは望ましくない。手を引いてもらう、シルメリア」


 一斉に武器を帯びた男たちが影から飛び出し、クゥナの退路を全て塞いでしまう。軽装な防具に、おそらくは耐火性の高い外套に身を包んだ、戦いを生業とする者達。ただし傭兵達とは雰囲気が違う。

 同じく群体としての規律や戦う者としての矜持を持ちながらも、野暮ったく荒々しさのあるそれを更に研ぎ澄まし、磨き上げられた立ち振る舞い。

 属するのは群ではなく軍。

 率いているのは、

「ファリス………」

 振るう刃は国と民の為に、その身の全てを捧げると誓った騎士の名を呼ぶ。

「再会の挨拶は不要だな」

 荒れ狂う炎の中でも尚揺るがず、狂騒さえ置き去りにファリスと呼ばれた少年が姿を現した。年齢はクゥナとそう変わらない、体格だけを見ればまだまだ子供と言えるファリスの放つ雰囲気は、しかし常人とは決定的に違うものだった。

 かの姿、かの在り方はまさに剣そのもの――――。

「お前が動く意味、分かっていない訳でもないだろう」

「”唯一絶対の剣”が何故ノンスイーストに」

 冷徹の声に応じるクゥナもまた、冷え切っている。

「答える義務も、義理も無い。お前の身は我々が拘束する」

「他国での軍事的行動が許されると?」

「それは最早お前が心配する話ではない」

 切って捨てる言葉に、クゥナはあぁ、と頷きを入れた。

 周囲の反応が疑問となり、興味へ転じる間を取って、

「ノンスイーストとは既に話が付いている、と。ホルノス現政権とノンスイースト王家の公式協議は近そうですね」

 おそらくファリス達はそれの非公式な事前交渉を行っていた。彼ら”唯一絶対の剣”が中核なのか、あくまで飾りを兼ねた護衛なのかは分からないが、革命から既に七年が経過し、両国の情勢を鑑みればそうありえない話ではない。民間での交流は既に再開されているのだから。

 穿つような指摘にもファリスは動じる気配は無かったが、周りの者達は違う。内容を知らされていなかった者も多かっただろうが、数名からの反応は得た。

「拘束しろ」

 にべもなく、これ以上の問答は無意味と斬り捨てたファリスは背を向け、

「……………警戒!」

 言葉から間も無く鋼の擦過音がクゥナの耳を劈いた。視界の端に細長い棒が転がる。

 思考が空白になるのも僅か、ファリスは即座にクゥナを守るように一歩を踏み出し、しかし次を躊躇い、

「そこの三人、護衛に付け。他は左右に二列縦隊を維持したまま拠点へ移動する」

 指示だけを残して大通りへ向かう。

 その背中へ掛ける言葉は見つからなかった。氷付けにした心に亀裂が走る。

 間も無く、

「動かないで貰おうか、ホルノスの英雄君」

 前方を塞ぐように、弓矢を構えた男達が隊列を組んで現れた。

 見えるだけで数は二十を超えている。彼らが一斉に矢を放てば、逃げる隙間も無い致命的な状況だ。しかしファリスは問答すら捨て置き突進。

 事態の把握が遅れたクゥナがようやく無表情を崩し、手を伸ばして追い縋ろうとする。思うほどの躊躇いは無かったが、動きを察した兵らに抑え込まれてしまう。ファリスの背中には届かない。

「馬鹿が!」

 誰が見てもそう思っただろう。逃げ場の無い広範囲に及ぶ攻撃を前に真正面からの突進、どれだけ足の速い人間でも放たれる前に隊列へ飛び込むなど不可能、だからこそ男達を従えていたらしい者は僅かに動揺し、しかし決断した。

「放てぇっ!」

「駄目っ、ファリスにはそんなもの――――」

 矢が、空気を貫き飛翔する。

 クゥナの叫びは掻き消され、

「――――意味が無いっ

 彼らの元へは届かない。

「平伏せ」

 紡がれたのは予想もしなかった命令。

 その意味を思考するより先、ファリスの眼前で放たれた矢が平伏した。まるで意志があるかのように、命じた者の道を妨げてはならぬとばかりに左右に割れ、地面へ向けて頭を垂れる。まるで主君を迎えた臣下の如き様相だ。

「前進しろ!」

 混乱から立ち直らせる暇も与えず、ファリスは隊列へ切り込んだ。

「止めてっファリス!」

 弓を構えたまま呆然としていた者達を一振りで四人、続けざまに二人、背後へ回り込んで先の状況を確認しながら更に飛び込んでいく。

「私は付いていくからっ、もう戦わないで!」

 声、届かず。

 防衛線の崩壊は瞬く間と言ってよかった。

 たった一人の、年端もいかない少年によって既に半数が息絶えた。

 圧倒的な強さ、そして理解の及ばぬ不可思議な力。七年前、ホルノス王家による圧政と飢餓によって起きた内乱、北方の海を越えてやってきたエオルドの侵攻、双方を瞬く間に治め前王権を打破した革命の立役者、ファリス=ゼブライト。

 かつてとはあまりにも違う、それでも分かっていた筈の事をクゥナは受け止めきれない。

 表面上はどれほど取り繕うとも所詮は年端のいかぬ少女。今はどうあれ、かつては誰よりも優しい環境で育ち、愛されてきたホルノスのお姫様では、目の前で見せ付けられたあの日の優しかった男の子が何の躊躇も無く人を殺すという光景を許容出来なかった。

 そしてそんなクゥナだからこそ、同じような環境にあったファリスも、表面上はどれだけ取り繕おうと同じなのではないかという甘い楽観があった。

 濃厚な血の匂いに視界が歪むのを感じる。

 異常な早鐘を打つ心臓が傷みを放つ。否、傷むのは本当に心臓か。

 涙は流すものかと必死で堪え、死んでしまった人達を目に焼き付けた。自己満足に過ぎないと分かっていても、そうせずにはいられない。見苦しい偽善だ。

 ファリスに圧倒された生存者は思考も忘れて呆けている。

 彼の進行を止められる者など誰一人として存在しなかった。

 ただし、

「お取り込み中すまないね」

 向かい合うだけが術ではない。

「この子は頂いていくよ」

 背後から手を引く者が居た。


   ※  ※  ※


 伸ばした金色の髪を右側で纏め、肩越しに垂らしたおさげがふわりと揺れる。いかな手段か、片手で掴みかかって来た騎士を呆気無く弾き飛ばし、その手でずれた眼鏡を押し上げる。

「………ローティさん?」

「また会ったねクゥナ」

 以前聞いた通り、変わらぬ穏やかな声色にクゥナは違和感を覚えた。こちらを安心させるような優しい笑み、それが、視点を変えた途端に切り替わる。

 その目は、前方でファリスに斬り殺された者達へ向けられているようだった。

「あまり歓迎したい展開ではないね、コレは」

 迷わず目標を切り替え戻ってきたファリスは警戒するように足を止め、ローティを推し量る。二十もの男へ迷わず突っ込んで行った事から考えれば異様とさえ取れるが、何かしらの策がある可能性も否定できない。

 ファリスは僅かに背後を見やり、

「貴様の仲間か」

「昨日は一緒に食事をした仲だ」

「そうか」

「謝らないのかい?」

「許すのか?」

「許すかもしれない」

「必要ない」

「そうか」

 切っ先がローティへ向けられる。応じる動きは、後方への退避だった。

 手を引かれたクゥナも歩を進めかけるが、

「私は残ります。このままじゃ、生き残った人も――――」

「責任を取ってもらおう。君の為に死なせた仲間の分だけ、君には従ってもらう。彼らの命がこの場に留まる程度だったのなら構わないが、そうでないなら一緒に来てくれ。それに、君が離脱するまで誰も引く気がない。全員の命を差し出しても足りないというのなら仕方がないがね」

 言葉を失った。

 返す意志を根こそぎ刈り取る、それだけの言葉であり、それだけの意志だった。

「すまないね、と言うのも卑怯だが、そうする理由もある」

「逃げ切る算段は」

「ある」

「………分かりました」

 了承の言葉には胸中を引き千切る力があった。四肢に振り回されそうになるのをなんとか抑え、背後を気にしながらも先行したローティにクゥナも続く。騎士達も追い縋るが、建物の影から新たに飛び出してきた者達を見るや膝を付き、盾を構えて密集した。

 放たれたのは矢。今度は不自然に逸れる事なく、幾つかは盾に弾かれ、幾つかは外側の者へ突き立てられた。

 その脇をまたしてもファリスが単独で駆け抜け、放たれた矢に対し小さく口を開く。

「気をつけたまえ、その矢は鏃が付いていない

  しかし先に言葉を作ったのは、通路を曲がる手前で足を止めたローティだった。対し、歩を緩めたファリスはそれでも止まる事無く外套を翻す。姿勢を低くし、 前方を覆うように下から上へ。鏃が無いのならば矢はただの打撃にしかならない。威力は決して低く無いが貫かれる心配も無いなら逸らすのは簡単。

 外套に覆われた視界が晴れるのを待たず、ファリスは一歩を踏み出した。

 肩の接続部を外しつつ、剣を突き出す。

「っご、が、ぁぁあ!」

 不快感を催す人の呻き声を聞いて、クゥナは悲しげに眉を寄せた。状況への興奮が一瞬で逆流し、凍える血が全身を巡る感覚があった。

「悔やむなら逃げてくれ。君を逃がす為、彼は命を懸けた」

「なんで私なんかの為にっ」

「さてね。理由は後で彼らに聞くと良い。私は面識があったから連れて逃げる役を任されただけだよ」

 言葉に脳裏を掠めたのは落下していく馬車の中、満足げに笑っていた名も知らぬ騎士。

  想い、ふらつきかけた足に力を入れる。地面を蹴り飛ばすように前へ。元より体調は最悪だった。そこへ火災による煙や熱、争いによる人死にまで目にして、手 足はすっかり凍えている。まともに走れぬ身を見てローティは再度手を取り、しっかりと支えてくれた。その後も凍り付かずにいられたのは、動き続けられたの は、きっと繋がった手から伝わる彼女の温かみのおかげだ。

 郷愁にも似た感覚が胸を締め付けた。しかし、記憶のどこを探しても見覚えはない。普段なら正体を知られる事への不安を覚えるが、自然とそういったものは感じなかった。

「このまま真っ直ぐ走れ」

 言われ、前を見る。

 そして気付いた。

「だめっ! ここは通れない!」

 絡め取られるという確信があった。人の身では抗えない決定的な何かがそこにある。行けば取り返しのつかない事が起きる。それは踏み出す事で”確定”する、運命。

 あまりにも頼りない、薄い膜で塞がれているだけの道は、入るのは容易くとも抜け出すのは容易ではない。感覚と言うにはあまりにもはっきりとした予感にクゥナは生理的な不快感さえ覚えた。何より大きかったのは、恐怖だ。

 繋がれていた手は離れ、ぬくもりは消え失せた。

「構わない、行くんだ」

 行けないのではない。

「でも」

 行きたくなかった。

「君の力が必要なんだ。悪いが、説得している暇も無くてね」

 トン、と背中を押され、

「頑張れ、クゥナ」

 あまりにも呆気無く、クゥナはそこを通り抜けた。

 直後、通過を待ち受けていたかのように燃え盛る瓦礫が道を埋め尽くし、二人の繋がりを阻んだ。

 他に逃げる道などどこにもなかったのに。

 すぐ後ろにはあのファリス=ゼブライトが迫っていたのに。

 結果など考えるべくもない。

「ローティさんっ!!!」

 返事は瓦礫の向こうから放たれた。

 ソレは放物線を描いて飛び、クゥナの手元に落ちてくる。

 受け止めた途端に感じたのは、途方も無い重み。

 見覚えのあったソレはほんの先日に見たものだった。

 ロイという少年が身に付けていて、なぜか先程はローティが帯びていた、一振りの剣。

 特別優れた武器という訳ではない。

 乱造品の一つでさしたる価値さえない。

 それでもその剣は、とてつもなく重かった。


   ※  ※  ※


 見つけたのはどれほどの時間をさ迷い歩いてからか。

 尚も燃え続ける『大火災』。強烈な炎によって酸素量が減少した事でクゥナは酸欠状態に陥り、意識を朦朧とさせながらも剣を抱き締め歩いていた。

 犠牲にした人達への罪悪感と激しい自己嫌悪にいっそ炎に飛び込もうかと幾度も考えた。

 それでもそれを押し留めたのは、預かった一振りの剣があったからだ。

 どんな意味があるのかもわからない。

 出会えるかどうかすらわからない。

 けれど受け取った想いを無駄にはしてはいけないと、必死になって歩き続けてきた。

 会いたい。

 碌に面識も無い少年だが、彼に出会う事こそが唯一の救いとさえ思えていた。

 出会えたなら、渡せたなら、少なくともローティ達の想いは報われる。

 会いたい、

 会いたい、

 会いたい、

 願い、歩き、願い、歩き、願い、歩き、願い、歩いた。


 そして、あまりにも残酷な形で、願いは叶えられた。


「………………………………………………………………………………………………………………………………………ろい?」

 崩れ落ちる。

 目の前に来るまで信じられなかった。

 面影はある。

 けれど、見えている身体のほとんどは焼け爛れ、腕は不気味な形にへし折れ、必死に開かれたままの瞳はこの街路の先をじっと見つめているように思えた。

 息は、無い。

 脈も、無い。

「………………ろい………………………ろーてぃさんからね…あずかってきたよ………あなたの…だよね……………ねえまちがってるかな……おしえて…………おしえて………………………………ねえ」

 木材のように硬くなった頬を撫で、髪を梳くとハラハラと千切れ落ちた。

 呼吸が定まらない。

 焦点が合わない。

「わ たしのせいだ…………あのときにむりにでも…どんなてをつかってでもひきとめていたら……わたしが…………わたしが…わたしがわたしがわたしがっ……もっ と……ちゃんとほるのすをみていたら…ふぁりすだってあのままで………ろいだって…ろーてぃさんだって………あのひとだって――――死ぬ事なんて無かっ た!!」

 抜き放ち、鞘を放り投げ、柄を握り――――

「ごめん……ごめんなさい。でももうどうしたらいいか分からなくなっちゃったよ」

 切っ先は首へ、真っ直ぐ貫けるように。

 最後にロイの顔をしっかりと焼き付けようと目を向け、その唇が僅かに、


「…………たすけ…て」


 涙が溢れた。

 溢れて、止まらない。

 握っていた剣は手から零れ落ち、クゥナはただ無心、ロイの身を包み込むように抱いた。


「大丈夫……もう大丈夫だよ」


 空が割れる。

 ほんの僅かに、黒煙と炎が立ちこめる『大火災』を切り裂いて、一筋の光が真っ直ぐに降り注ぎ、ロイとクゥナの身を照らした。純白の光はあらゆる穢れを祓うように、二人を守護するように、優しく、優しく、抱擁する。

 天を仰いで、彼方に居るかもしれない彼女へ、クゥナは言葉を紡ぐ。

「あぁ、神様…………」

 万感の想いを籠めて。

「この慈悲に感謝します」

 そっと掲げられる手。

 クゥナのものではなく、それは、

「セ……イ、ラム……」

「ロイ、良かった………」

 力ないその手を取り、クゥナも一緒になって天へ掲げる。


 そして――――光が弾けた。



 





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