「『ルモリア』っ、近くで火事だ! すぐに逃げるぞ!」

 ドアを突き破る勢いで室内へ飛び込み、ロイは叫んだ。

「この辺りは木造が多いからってうおあああ!?」

 そこで、何故今まで自分が部屋から出ていたのかを思い出す。

「?」

  首を傾げ、平然とこちらを見るのは『ルモリア』。ただし、今はその身を包んでいたボロ布はなく、ローティが買ってきてくれた服に着替えようとしている最中 だった。万が一にでも竜鱗が見られないよう手足には長い手袋に靴下を、そこからなぜか他を着ずに髪を隠すようフード付きの外套を着ようとしている。

「ごめん! いや、でも何でそれだけ!? 肌着とか上着とか順番に着ないと!?」

 言いつつ背中を向けるが耳まで真っ赤になっているだろう。女性の裸なんて初めてだ。孤児院とて男女の区切りはある。物心付く前ならどうかわからないが、生憎記憶にはない。

「とりあえず急いでっ」

 言いはしたが、背後から物音は聞こえず、返答もこない。

  おかしいといえばおかしかった。なにせ『ルモリア』の『サルヴェル』に対する反応が今までとは違う。覗きまがいな事までしておいてなんだが、母として接し てくる『ルモリア』が怒ったり態度を変えたりという可能性は低いだろう。むしろ今まで通り、語りかけたら即座に返事が返ってくる筈だ。

 直感があった。その日の天気から飛来する矢まで感知せしめたロイの勘が、大量の虫が背筋を登って来るような悪寒を及ばせる。

「…………『俺』の事が分かるか?」

 返事が、こない。

 恐る恐る背後を振り返る。

 そこに立っていたのは、

「お前の名前は?」

 自分の名前すら知らず、言葉も知らず、夜の世界しか知らない女の子。

 彼女は人形にように、糸を繰られるのを待っていた。そうしなければ動けない、動く方法さえ知らないと思い込んでいた。

「くそっ!」

 決断は早かった。

 照れも何も無い。

 強引に外套を脱がせ、次々服を着せていく。置いてあった水差しから水を被り、彼女にも頭から被せる。余った分で手拭いを湿らせ『ルモリア』に握らせて口に当てる。

「このまま息をするんだ。絶対に離さないように」

 言いつつ自分は何も持たないまま口元に手を当て呼吸する様を見せると、ややして理解したのかゆっくりと肩が上下し始めた。

「逃げようっ!」

 残る手を取り、走り出した。

 外気は既に熱を放っている。

 チリチリと焦げ付くような感覚は、内と外、双方からロイを責め立てた。


   ※  ※  ※


 店主も客も居なくなり、無人となった筈の店で酒を煽る男が居た。

 崩れた街路側の隙間からは火の手が、そして逃げ惑う人々が見える。

「悪くねぇ。が、品があり過ぎて宴には向かねえな」

 癖のある黒髪に、見るものを震え上がらせる黒眼。腰に帯びた剣は実用一辺倒で飾り気はなく、逞しい体躯は一目で彼がいかな人物かを教えてくれる。

巨大な飛竜さえも食い物とする、カストロフィアの狂戦士ヴィート=クロイツェフ。

「高見の見物は好みじゃねんだがな」

「今出て行っても、君が望むような相手には出会えないよ? ヴィート」

 言葉に吐き捨てるような嘲笑が重なった。

「お前が言ってた”ルモリアの因子”も大したこたぁなかった。あれじゃあ”焔の災厄”以上に楽しめるとは思えねぇ。例の話は止めだ。余計につまらなくなる」

 再度酒を煽り、空になったのか飽きたのか、無造作に後ろへ放り投げる。少しして硬い音が店内に響いた。

「”神の因子”の力はあんなものじゃないよ。もう少しすればきっと、楽しくなる」

「ブレスタン。俺はお前の誘いには乗ったが、相手がお前だって構いやしねぇんだぜ?」

「生憎と僕は君と戦えるような力はないよ」

 ブレスタンと呼ばれた男は困ったように、あるいは楽しむように笑う。

  白皙の青年が纏う雰囲気は人とは一線を画したものだ。冷たいようで暖かい、拒絶するようで許容する、逃げるようで寄ってくる。それでいて無視出来ない存在 感があり、かといって手を伸ばせば霧のように掻き消える。掴み所が無いとでも言うのだろうかとヴィートは考える。変人ばかりなカストロフィアでもこんな人 間は居なかった。

 生まれや才覚、積み重ねた経験だけでは得られない何かがあるように思えた。

「”神の因子”ねぇ」

 あるいは、神という存在はこんな感じなのかもしれない。

 『ルモリア』がそうであるように、ブレスタンの身にも”神の因子”は宿っている。言っている事が本当か嘘かは判断が付かないが、ヴィート自身それほど彼と戦うつもりはない。

「退屈は地獄だ……平和なんざクソ食らえ」

「この状況を平和と言うのは無理がありそうだね」

 外は『大火災』で地獄絵図。ブレスタンの話によると市壁の門周辺は特に火の手が強く、逃げ場を失った者達は少しでも勢いの弱い場所へ殺到しているらしい。そしてこれから起こるであろう出来事にも大体は見当が付く。

「火だけが問題じゃねえ。略奪、暴行、人攫い。こんな時でも悪知恵の働く連中は大勢居るもんだ。逃げ場があるとか言って呼び込んで、そのまま奴隷商行きってのもあるな。まあ生き延びられるかは別だがよ」

「事の焦点は『ルモリア』にある。『大火災』中に起きなかった事はそう起こらない。人の無意識まで侵食してしまうのが”神の因子”の怖い所だね」

「でもアイツは不完全なんだろ?」

「不完全だからこそ、因子には抗えない。より強い力に物事は傾いていくものだから」

「そんなもんかねぇ」

 適当に言い捨て、ヴィートは立ち上がる。

「行くのかい? まだ大した力じゃないと思うけど」

「匂うんだよ。『ルモリア』とは別の、戦いの匂いだ」

「………匂いか」

 興味深げに鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ様はどこか間抜けだ。彼の雰囲気を神のような、などと称したヴィートは思わず笑ってしまう。

 対しブレスタンは眉を寄せ、

「焦げ臭い……」

「はっ、そいつが分かるようになりゃあ、お前も戦いの面白さが解るようになるだろうよ」

「参考までに聞くけど、どんな匂いなんだ?」

 言われ、ヴィートは少し唸る。

 迷うというより酔いを楽しむように。

「酒 だ。面白い戦い程良い酒みてぇな匂いをさせやがる。中には悪酔いするような安酒もあるがよ、こいつはそうだな……さっき飲んでた一級品に似た感じだ。だが こっちのが上等だな。品が良い様で、とんでもなく熱く喉を焼く火酒みてぇなものも感じる。こういう奴ぁ戦い甲斐がある。最高に気分良く酔えそうな気がする よ」

「なるほど、どうやら『ルモリア』に釣られて集まってきたのは僕達だけじゃないみたいだね」

 遠くを見るようにブレスタンが目を細める。

 そこに違和感を覚えるのは、彼が何らかの力を用いて周囲を探っているからだろうか。既知とは違うモノ、普通に考えれば在り得ないモノ。解らないからこそ、ヴィートは嗤う。

「とりあえずよぉ、この『大火災』はどうやってケリがつくんだ?」

「『大火災』は人為的にも自然的にも消えない。『ルモリア』が泉へ突き落とされ、彼女の怨念を受けた水竜が『虐殺』を行い、その余波で火の手は消える。村は壊滅、村人達も命からがら逃げ果せた、と本には書いてあったね」

 持って回ったような言い回し。

 つまりは、違うという意味だ。

 通じたらしい事を察したブレスタンが笑みを見せる。

「歴史の闇に消えた真実、じっくり見て回るのもそれはそれで楽しいかもしれないよ?」

 興味ねえよ、とヴィートは言い捨て店を出る。

 狂騒とする『大火災』に何一つ怯むことなく、むしろこれから楽しい祭りに参加しにいくような足取りで。

 それを最後まで変わらず眺めていたブレスタンは、呆れるように、称えるように笑った。

「『ルモリア』の手を引いた者がどうなるか、僕としては興味があるけどね」


   ※  ※  ※


感情がどんどんと焼け付いていくのを感じた。

 勢いは弱く、しかし着実に、熱は心を焦がす。全身の毛穴から黒く淀んだ煙を吐き出すような不快感。

 それと同時に肉体の外からも熱は襲い掛かってくる。火の手を避けても空気はどんどん熱くなる。建築物に使われている木材から催涙性の煙が滲み出しているせいで目を空けているのも辛い。

 心配になって背後を見れば、こんな状況でも人形のような表情の『ルモリア』が見えた。

 火の手は一層強くなる。

  これが『大火災』の再現であるというのは既にロイも勘付いていた。元より勘だけは鋭いのだ。しかしこのまま再現を続ける事は絶対に出来ない。再現するとな れば、『ルモリア』は泉へ投じられ、水竜の出現によって町は壊滅する。『サルヴェル』とされているロイは助かるかもしれないが、今は誰でもない以上確証は 無かった。第一、自分が生き残ればそれでいいなんて考えは論外だ。そんなことは絶対に出来ない。

 手を引いて、ひたすらに走る。

 町の構造はある程度しか把握していない。建物も燃えて目印がなくなっているだけに人の流れに沿っていたつもりだが、いつの間にかそれも途切れてしまっている。

 違和感はあった。

 けれど、立ち止まる事も出来なかった。

 焦りがロイの判断力を決定的に奪い、立ち止まって思考する選択肢を奪い去った。

 そして、勘の良い彼でさえ気付かなかった一つの事象がある。

 冷静さを失い、浮かび上がる感情のままに行動する事。それを歪める超状的な力の存在を知りながら敢えて忘却した。自分という存在を忘れられるという事、今までの想いが無になる事、恐れたが故に考えないようにした。

 故に”確定”した。

「っ――――」

  声ならぬ声を聞いて、繋いでいた手が離れていく。時間の感覚が引き伸ばされたように掌を滑る指先の感覚をまじまじと感じた。振り向く動作さえもどかしく、 見れば『ルモリア』が躓いて転んだようだった。指先は指の間接部へ縋るように絡められようとし、しかし間に合わず、指先と指先が僅かな抵抗を残して別離し た。

 感じたのは途方も無い喪失感。

 離れた指先から凍りつくような冷たい感覚が、肘へ、肩へ、首へ、頭へ、胴へ、足へと駆け巡る。

 振り払うように熱風を吸い込み、慌てて引き起こそうと手を伸ばそうとし、

「(あれ………)」

 身体が、

「(うごか、な              )」

 炎に包まれた。


   ※  ※  ※


 「ふ、っはははは、あああああっっあっああ、ひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ひきつけでも起こしたような奇妙な笑いが口から漏れた。狂ったように表情が定まらず、興奮に任せて剣を振り回し鞘を飛ばした。

「――――素晴らしい!! これが”神の因子”か!!」

 両手を広げ、熱風の中を威風堂々と歩く。つい先ほどまでの不安は一気に吹き飛んだ。炎に煽られ仰向けに転がった少年を興味深げに覗きこみ、まだ僅かに生きているらしいと知るや一層笑う。

「なるほど、『司祭』は即死ではなかったのか。些細な事ではあるがこれは中々に興味深い。だが、生憎と君はこのまま死ぬ。そういう運命だ。どうかね、どういう気持ちかね。どこまで『司祭』と同化しているかは知らんが、何か己とは違う感情が浮かんでくるものかね?」

 眼球が焦点を結ばぬままじっと空を見やる。語りかけてやっているというのに反応が無いとは、と男は憤慨し、黒く焦げた衣服ごと少年の身を踏む。

 呆気無く、まるで小枝を踏み潰すように少年の腕は折れた。

「叫びの一つも挙げるなら面白いが、まあどうでもいい」

 踏みつけたままの足を支えに跨ぎ、男は『ルモリア』を見やった。どこから飛ばされてきたのか、空から降り注いだ瓦礫に押し潰されて気絶している。いや、目覚めていながら反応出来ないだけかもしれない。

 しかし一つ困った事があった。

「本来ならば手勢が居たものだが、自分でやるしかないか」

 未だ炎を帯びる瓦礫を退かし、『ルモリア』を回収しなくてはならない。恐怖心はあったものの、今の立場の自分ならば死ぬような事はないと思い直す。ただ、やはり動物的な本能として炎に包まれたものを掴む気にもなれなかった。

 しばらく思案していると、不意に周囲を紫色の光が包みだしたのに気付いた。

 それは一つ一つが小さなものだったが、一瞬鼓動するような動きを見せた直後、妖しい燐光の中から真っ白な手が現れた。

「ひっっ!?」

 真っ白な手、明確には、手であって手ではない。続けて胴、頭、足と全身を現してようやく理解に至る。

「…………骨の、人間?」

 肉が無かったのだ。ただ人の骨格だけがそのまま、操り人形のように動いている。ソレらは腰を抜かした男の脇を抜けて『ルモリア』を押し潰す瓦礫を退かし、担ぎ上げる。

「ま………待て! そいつは私のものだ! 誰にも渡さんぞ!」

 飛びつくように、相手の不可解さも忘れて追い縋った。しかし骨の人間たちは迎えるように『ルモリア』を渡し、男の周囲を守護するように道を作る。

 僅かに間を置き、再度ひきつった笑いが漏れた。

「そうか、これも”神の因子”によるものか! 私が『ルモリア』を連れてこの町を出る事は既に”確定”している。その道中も単独ではなく複数だった。こいつらは私の手勢ということか!」

 全てが上手くいっている確信が産まれた。

 ありとあらゆる歴史書を紐解いても、泉までの行程が邪魔されたという話は無い。だがこの町は史実とは違い、泉が近くにはない。道中はどうとでも捻じ曲げられる。結果泉へ辿り着くとしてもその行程は”確定”していないのだから。

 その過程で目的を達する事が出来ればそれでいい。

 『ルモリア』がルモリアとしての力を発揮できるかどうかはやや不安が残るが、こうして『大火災』によって一時的に状態を巻き戻したのと同様、別の再現を行えば可能らしいという仮説は立てられた。

 これでいい。

「待っておれ………裏切り者ども!」

 最後にもう一度笑い、そして、過去を想って歯噛みした。

「力 は手に入れた! この行いは罪だろう! それでも私は、人々の想いを回帰させる為、正しき道へ導く為、罪と知りながら力を振るう! その後でならいかにこ の身が煉獄に焼かれようとも悔いはせん! さあ刮目せよ! 全てを破壊し、その混沌の果てに今一度彼女を呼び込もう!」

 天を仰ぎ、その果てに居るであろう救世主へ向けて。



「大天使セイラムよ!」 



   ※  ※  ※


 死は、もっと華々しいものだと思っていた。

 力の限り戦って、戦って、戦って、信念は折れず、それでも届かず切り裂かれる。後悔はあるだろう。無念に思うだろう。まだ戦えると最後の瞬間まで考えている筈だ。ただ何か、たった一つでも何かを成し遂げて、精一杯生き抜いて、誰かに伝えて、遺す。

 そういった死を想像していた。

 いや、本当は知っていた。

  死は無残なものだと。一軍と一軍がぶつかれば、その衝突の最前に立った者達は大多数が死に絶えると聞いた。実力や勝敗なんて関係無い。ぶつかって、凝縮さ れた戦いの中で体力をすり減らして、始まりに過ぎない、趨勢を分けるでもない、数百数千の内の一人が減ったと、それさえも気付かれない終わり。

 それが嫌だったから考えないようにしていた。

 自分が死ぬなんてありえない。全部上手くいく。

 つい先日にその否定を体験していながらも尚、ロイは死を意識出来ないでいた。

「(だから、って………こんな、こんな終わりってありかよ……)」

 痛みはもう感じない。誰かが話し掛けてきたようだったが、声は聞こえてこなかった。手足はどこかで千切れているかのように動かない。

 転がったままの状態で、片目はなぜか見えないまま、遠ざかる背中を眺めている。

「(『ルモリア』……)」

 つい先程まで繋がっていた手は、指先は、ぴくりとも動いてくれない。見えているのに、手はまっすぐ『ルモリア』へ向けられているのに、そこから先は動かない。

 守ると大口を叩いたくせに。

 ”神の因子”なんかには負けない。

 運命に抗ってやろう。

 ふざけた物言いだ。そんなのは結局、子供の頃から憧れてきた英雄達を自分に投影して陶酔していただけ。

 悪い竜を倒してお姫様を救えるのは、王様が仕向けた兵や村人なんかじゃない。そうと生まれ、そうと生きてきた勇者だけ。分不相応に出しゃばった者は物語に係わる事無く消えていく。黙って勇者に行き先を示していれば生き残れたのに。

 最悪なのは、その村人は自ら悪い竜へお姫様を差し出してしまったという事。

 救いもようもない、何かを成し遂げて遺すどころか、悲劇の一幕を自ら開いてしまった。

 どこまでもみじめで、みじめで、みじめで、みじめで、みじめで、みじめで、みじめで、

「(ごめん……ごめん…ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、なにも出来なくて)」

 なのに、こんな時に浮かんでくるものは、

「(死にたくない……こんな事、しでかしたくせに俺は………死にたくないんだ…)」

 情けなくて涙が溢れてくる。

 でも本当に情けなさからなのか、ただ死が怖くて泣いているだけじゃないのか。最後の最後まで自分の事ばっかりなのか。

 意識が、遠くへ、遠くへ、遠くへ、何かに引きずり込まれていく。

 見えていた光は遥か彼方へ、腕を伸ばしても届かない、彼方へ。

 もがいても、もがいても、もう手は届かない。

 繋がれていたのはこちらだった。

 彼女の手を離さなければこうはならなかった。

 まだ引き留めて貰えていた筈だった。

 彼女はそれだけの存在なのだから。

 天地を揺るがす力を振るえる”神の因子”を持っているのだから。

「(………だ、れ…………か…)」

 光へ向けて、伸ばす。

 一心に、もうその心の中身すら分からないまま。

 伸ばして、伸ばして、伸ばして、そして、

「…………たすけ…て」

 光をよりも更に強い、純白の光が、闇を包み込んだ。

「大丈夫……もう大丈夫だよ」




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