呆然とクゥナは天井を見上げていた。
 板張りで照明も無いそこに、意図せず複数の光景が浮かび上がっては消えていく。一つは崖の下へ落ちていく男、一つは惨殺された隊長。交じり合って、ごちゃごちゃになって、途端、鮮明になる。
 住み慣れたお城の中。
 悲鳴を打ち消す怒声、鉄の音。
 鼻を突くような臭気を放つ炎。
 空を覆いつくす程の黒煙。
 胸を貫く冷たい感触。
「あれから………七年」
 ホルノスで革命が起き、全て王族が死亡、新たな政権が国を建て直し始めて、七年。
 1600年も昔に紡がれた御伽噺から人々が目覚め、自ら歩みだしてから、七年。
「……ふぅ……、そろそろ…限界かな………」
 翳した手を見て力無く笑ってみる。
 肉が削ぎ落とされたように骨ばった指、そこに瑞々しさなど欠片もなく、手だけを見れば老人と思われても不思議はないような状態だった。
「だいじょうぶ……まだ、やれる…がんばれるよ……おかあさん」
 言葉には整わない呼吸が混じり、翳した手を下ろして以降、身体は寝台へ磔にされたように動かない。次第に呼吸をするのも難しくなってきた。
 急激に意識が遠のいて、自分が横になっているのか、立っているのかさえ曖昧になって世界が捻り回る。幸いにも恐怖は無かった。
「おき…………た、ら…どうしよう………さが、さ…ない……と…かな………」
 現実は遥か遠く。
 肌に触れる感覚も、耳を伝う音も、何もかもが果てへと押しやられていく。
「………すくって、みせる…から……」
 最後の呟きは、祈るように――――
「セ、イ……ラム…………」

   ※  ※  ※

 「ん」
 と差し出された果物に視界を覆われてロイは思わず仰け反った。
「いや、だから……」
「ん?」
「自分で食べられるから、さ?」
 言っている事を理解しているのかいないのか、『ルモリア』は首を傾げてしばし思案し、俯き、そっとロイの手を取るとその上に乗せた。
 やわらかな笑みが向けられて頭を撫でられる。
「うんっ」
 笑顔は、快晴の向日葵というより雨に濡れた紫陽花のように思えた。
 詰め寄るような形で身を乗り出していた『ルモリア』が上体を起こすと、膝にまで届く長い白髪がつられて広がる。所々に混じる赤は、雪上に落ちる血痕のような、ある種の儚さを感じさせた。
「まるで母親気分、いや、まさしくその通りなのだろうが、改めて見ると自分の目を疑いたくなるものだな」
「ローティ……」
 買出しから戻ったらしい少女は外を気にしながら音も無く扉を閉める。
 先日、ロイとの『再会』を経て気を失った彼女を連れてきたのは、傭兵の詰め所ではなく街中の宿だった。隙間風のする安宿だがどうしても詰め所へは連れて行く気になれず、こうしてローティに手配してもらった。
 彼女が抱えているのもそう。
 ボロ布を纏っただけの『ルモリア』をそのままにはしておけないと、服を選んで着て貰ったのだ。女物の服などロイが分かる筈もないし、彼はそもそもそういったことに無頓着だ。
「白髪というのも珍しいが、その右腕は珍しいという部類からも外れている」
 つい先ほどまでロイの頭に乗せられていたのとは逆の腕。竜種の鱗に覆われた緑色はとても人のものとは思えない。
 いや、実際に人のものではないのかもしれない。
 水竜の加護を受ける『ルモリア』は、既に人の域を超えた存在だ。
「ん……………」
 静かに、『ルモリア』がローティを睨み付けた。
「大丈夫だよ、彼女は敵じゃない」
「いや構わない。やはり私は『刺客』と判断されてしまうらしい」
 この地に残る伝説上で『ルモリア』が行動を共にするのは、彼女の双子の妹である『アポリス』の子『サルヴェル』だけ。それ以外の全てを彼女は敵と認識し、殺し尽くしてきた。事ここに到って、ロイもあの男が言っていた”神の因子”なる力を現実として受け止めざるを得ない。
 それほどまでに、彼女は『ルモリア』であり過ぎた。
 寝台の上に転がる本に思わず目が行く。それは、黒巫女と称されるルモリアの伝説を記述したもので、先日の内にローティが持ってきてくれていた。無論、本 の内容すべてがルモリアの話で終わっている訳ではない。本は主にここ、ノンスイーストに残る伝説を纏めたもので、それは隣国でありロイの出身国でもあるホ ルノスの起源『ホルノス建国神話』についても触れられていた。
「私は一度詰め所へ戻るよ。連絡も入れず来ているし、心配を掛けているだろうからね」
「あ、そう……か。結局無断で行動したことになるんだよな」
「今更気付いたか。まあ言い訳は適当にしておこう。その様子からしてみても、お前だけが詰め所に戻るというのは難しそうだしな」
 ローティへ明らかに敵意を向ける『ルモリア』は、決してロイの傍を離れようとしない。昨夜、生物として逃れられない生理現象により部屋を空け、戻ってきた時に見た彼女のうろたえぶりは今も目に焼き付いている。
 それこそ、子を失った母親のように。
「いい機会だ。お前がしっかり休むというなら、口を挟む者もおらんだろ」
「……悪い。なんか、いろんなのが中途半端だな」
「物事全てに決着がつく方が珍しい。だが、この件は『決着』無しには終わらんぞ」
「それは――――」
 『サルヴェル』が刺客となって『ルモリア』を殺した様に、ロイも彼女を殺せと。
「それは、考え過ぎだ。確かに俺以外への敵意は強いようだけど、今だって言えば何もしてない。”神の因子”なんてのが本当だとして、絶対に抗えない運命なんて俺は認めない」
「そうだな。運命が絶対ならば、それはとてもつまらないし下らない。ただ、あの男が言っていた”因子”というものが既に配置されているなら、そうなるよう人為的に操作されていると仮定するなら、いずれは決断も必要だ」
 ローティの言葉は全て、ロイの内にあった考えを的確についていく。
 そう、仮に抗ったとしても、それを覆しかねない用意を組織規模でされていたらロイ個人ではどうしようもなくなる。
「それとも、物語を歪めるべく一生を彼女と過ごすか?」
「必要なら」
 全く、とロイの返答を予想していたようにローティの吐息が漏れる。
「それはお前の大好きなホルノスの理念とやらか?」
「大元を辿ればそうなるかもな。けど俺の考えに違いはないよ」
 真っ直ぐに声が出た。国外では時に嘲られ、革命以降ではホルノスでさえ否定される考えだが、ロイは幼い頃のままずっとそれを抱えてきた。それこそが彼を生かし、ここまで成長させるだけの物理的な援助を呼び込んできたのだから。
「お前だってホルノス出身なら分かるだろ。助けられるなら助けたい。偽善なんて言葉も結局は与える側と悪意を持って起こした側の意見だ。助けようという気持ちに真偽は関係ない。助けられた人からすれば、それは間違いなく救いなんだから」
 それを、ロイは身を以って知っている。
 無論先を見据えていると言えば嘘になる。今でさえローティの手を借りているからいいものの、彼女をずっと留めておく事はロイには出来ないし、より現実的な問題として資金も必要になってくる。
 『ルモリア』を伴って生計を立てるにしても、ロイは先日実戦を初めて経験したばかりの新米傭兵だ。どこかに士官できる程の人脈も腕も無い。
「ホルノスはどうであれ、私はお前を信用はしている。ただ、一つだけ聞いておきたい」
 問いに予想はついた。
 そして自分の返答にも。


「いざ必要となったとき、お前は彼女を殺せるのか?」


 だが、出なかった。
 用意していた答えが喉に詰まる。
 こうして接してしまった。触れてしまった。見てしまった。知ってしまった。
 母親としてロイへ接してくる『ルモリア』にいつの間にか気を許しすぎていると気付いたのはついさっきだ。最初は異性との接触を意識していたロイだったが、僅かな時間を共に過ごす内に、気が付けば彼女の行動に安堵を覚える様になっていた。
 ロイは親という存在を知らない。
 ホルノスの孤児院の前に捨てられていたと聞いた。孤児院には何人か仲間と呼べる相手も居たし、年上の異性が面倒を見てくれることもあった。だが結局は子 供同士であり友達の延長でしかない。町からの支援も受けていたものの自活を推奨されていた。それは町の人々が孤児院の運営を放り出していた訳ではなく、既 にそこまでホルノスでの生活が厳しくなっていたから。むしろそんな状況でありながら金銭的な支援だけでも続けていた彼らには心から感謝し、感服する。
「それが答えか」
 頭を撫でられる感触を初めて知った。
 親なんて居ても居なくても変わらないと思っていた。
 もし、自分にも母親が居たなら、彼女のように慈しんでくれたのだろうか。
「(馬鹿な考えだな………)」
 そうでなかったからこそ、ロイは捨てられたのだ。
 だから一切の興味を向けなかった。捨てた相手の事なんて知らない。知りたいとも思わないと。
 他人から見れば不幸と称される境遇にあって、それでも真っ直ぐに育ったロイが抱く、数少ない鬱屈した感情がそれだった。
 それだけに『ルモリア』の行動はロイの奥底へ入り込んできた。
 一生を共に過ごすのかというローティの言葉になんら動じなかった程に。
「……覚悟はしておくんだ、ロイ。この件は私達三人で完結する事じゃない」
「そうだな……」
 あのカストロフィア出身を名乗る男もいる。発端となった山越えの依頼主や、連れていた者達もいる。まだ知らない何かが居ないとも限らない。これだけの力を、一個人が掌握しているとも思えなかった。ともすれば街一つを崩壊させかねない程の脅威なのだ。
 この件はきっと、もっと大きな何かによって動かされている。
 鼻の奥に先日感じた戦場の匂いがした。
「また来る。極力外出はするな」
 扉の閉まる音が、どこか遠い。

   ※  ※  ※

 ローティが去ってからしばらくして、『ルモリア』はようやく警戒を解いた。
「サル、ヴェル…」
「違う。俺の名前はロイだ」
「サルヴェル」
 『ルモリア』は決してロイを『サルヴェル』としか呼ばない。どれだけ訂正しても、その事実を認識できないかのように更に言い直す。
 正直これにはロイでも不安を感じずにはいられなかった。
 名とは自分が自分である証の一つだ。その上ロイは自分の本名も、それがあったのかどうかすら知らない。ロイという名は剣術を教えてくれた孤児院の年長者がくれた名前だ。それだけに、ロイにとって名前というものは重い。
「アンタは本当に『ルモリア』なのか」
「『ルモリア』? うん」
 会話は少なからず通じるようにはなっていた。
 『ルモリア』が伝説上人の言葉を話したかどうかという記述は無かったが、境遇を思えば教えられていなかった可能性は十分に考えられた。故に彼女の言葉はたどたどしい。だが同時にある程度の言葉も通じる。『サルヴェル』の名も然り。
 なんとなくではあるが、それは今の『ルモリア』となる以前、”神の因子”を宿した者の知識とが混ざり合っているのではないかとロイは考えている。
 ”ルモリアの因子”に自我を呑み込まれた名も知らぬ女性。
「……あまり考えたくは無いな」
 ロイは置いていた本を手に取ると、折り目を付けていた所まで一気に飛ばす。「貴様はすべての愛読家を敵に回した」というのは折り目を付けたのを目撃した時のローティの言葉だ。買い取ってきたというのだから別に構わないと思うのだが。
「?」
 本が気になったのか、『ルモリア』が脇から覗き込んでくる。
 揃えた膝に両手を当ててそうする様はどこか品を感じさせる。
 顔つきも大人びており、おちついた表情でロイと本とを交互に見てきた。そして好きなのか度々ロイの頭を撫でてはあの穏やかな笑みを湛える。それを見る度に、ロイは胸の奥に妙な痛みを感じていた。
 自分ではうまく説明が出来ない。
 かといって怪我や病のように苦しいかと言われれば、どこか安堵のようなものが裏側に張り付いているのだ。しかし、どうしようも無く不安を駆り立てる。
 ローティの言葉は今も耳に張り付いていた。
 未来を構成する”因子”。子を求めていた『ルモリア』が選んだ『サルヴェル』が、親を知らないロイであったというのが本当に偶然なのだろうか。疑えばキリが無いのは分かっている。けれど考えずには居られない。
 もし、
「(俺が捨てられたのも……)」
 今この瞬間に当てはめる為だったのではないか。
「(馬鹿な考えだ)」
 今更捨てられた言い訳が欲しいのか。
 そもそも親への興味なんて無かった筈だ。
 生きるためのものは皆がくれた。
 心を支える為の教えもホルノスにはあった。
 そしてその教えに従った者達こそが、ロイをここまで育んでくれた。
 兄弟も大勢居る。町ではほとんどの人に顔を知られ、挨拶を交わす。満足な環境で育ったからこそ、傭兵などという危険な仕事に健康を維持したまま望める。 そこで様々な人と出会い、経験を得た。今ロイが持つ全てはおそらく、普通に親を持って生きてきた人に比べても一切劣るものは無いと言い切れる。

 ただ、手に入るかもしれない、そう考えてしまった。

 ロイは恵まれた環境に居る。孤児という生まれを考えれば驚くほど幸福な生を送ってきた。それでも決して手に入らないと思っていたものがある。
 それは、親という存在。
 母親として接してくれる女性が今目の前に居る。
 彼女がロイを子と認め、その上で生きていけるとするなら、どれほど幸福だろうか。
 ドクン――――と、鼓動は刃のように胸を割いた。
「馬鹿か俺は………」
 意図せず呟き、俯いた。
 痛みは心臓が命を刻む度に襲ってくる。自分の心がこれほどまでに弱かったのかと愕然とした。同時に、認めたくないと思う自分を自覚した。
 苦しい。
 そう思った。
「だいじょうぶ」

 ふわぁ、と冷えた身体を安堵が包み込んだ。

 何が起きているのかを認識するのに時間が掛かった。
 未だ感じたことのない温もりがあった。人の腕に包まれ、その胸に抱かれる感触など初めてだった。頭に頬を乗せられ、背中をやさしくポンポンと叩く。
「だいじょうぶだよ」
 しっかりと、力を込められながらもやわらかく、『ルモリア』はロイを抱きしめていた。
「ぁ……あの…」
 そこへ到ってようやくロイは声が出た。
 下手に身を任せれば一気に溶け込んでしまいそうな、そんな不安もある。一方で、純粋に年頃の少年としての気恥ずかしさのようなものもあった。幾ら彼女に母性を感じていようと、昨日今日会ったばかりの年上の女性であるというのは確かだ。
「もう…平気、大丈夫……だから」
「………うん」
 あっさり『ルモリア』はロイから身を離すと、ローティの買ってきた服へ恐る恐る手を伸ばし、触れては引っ込めてを繰り返す。それだけ見ると猫のようにも思えた。
 結局見切りを付けたのか、昨日から彼女の特等席となっている窓際の椅子に膝を抱えて座り込む。青空をさも初めて見たかのように嬉しげな表情。
 月の巫女である『ルモリア』は陽の下に身を晒さぬ様生活させられていたと本にもあった。
「……まずはちゃんと勉強しないとな」
 改めてロイは本へ目を落とす。
 そう冷える時期でもないのに、妙に身体が寒い気がした。

   ※  ※  ※

 男は追い詰められていた。
 既に手駒の大多数を失い、山積するのは問題ばかり。
 欲したのは力だ。あらゆる武力を凌駕し、反論の余地も無く叩き潰せるだけの圧倒的な力が彼には必要だった。
 私欲ではない。
 保身にも興味はなかった。
 少なくとも男にとって一連の行動はすべて、彼女に対する忠義そのものだった。彼女の望みを叶える為ならば命さえ惜しくは無かった。だが、無為に死ぬのは望んでいない。どれほどの屈辱と侮蔑を塗れようとも生き延びて全てを達成させる。
 それだけを望んで七年という時を生きてきたのだ。
「まだだ…………」
 七年という時は長い。
「終わるものかっ」
 望んだものはたった一つ。
 変わらぬ形。
 外からいかな干渉も撥ね退け維持し続けてきた。
 あの時の輝きは今もここに在る。
 それだけを見てきたのだから。
「ふはは、ははははははは」
 だからこそ男は気付かない。
「『ルモリア』は大火災で重症を負い、泉へと投げ込まれて水竜の加護を得た」
 彼の見る望みの外がどれほど血に染まっているのか。
 七年という時間を掛けてじっくりと、年輪のように重ねられてきた穢れの数々。ねっとりと絡みつくように、汚物のような悪臭を放つそれらに気付かない。
 全てを捨てて来たから。
 意識から追い出し見ようともしなかったから。
「だが何故火災が起きた?」
 準備は整った。
 誰も逃げられない。
「『アポリス』はただ逃げただけ………なら誰が?」
 カラン、と乾いた音が暗い室内に響いた。
 視界が瞬く間に赤く染まっていく。
「誰が………彼女を泉へ突き落とした?」
 その中にあって男に見えるのは、尚も輝かしい理想のみ。
「――――は、ははは……ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
 語り継がれない物語もある。















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