「やれ」 声が聞こえた。 「っ――――!」 それだけでロイは、心臓へ剣を突き入れられたかのような衝撃を感じた。 思わず胸に手を当ててもそこは傷一つ無く、心臓も確かに鼓動している。感覚の意味が分からず思考に空白を生むも、接近する死の気配にすぐさま頭が切り替わった。 剣を抜く。 ローティへは先に帰る様言ってある。他を気にする必要は無い。 理由も意義も見出せないが、戦うというのならロイも手加減はしない。 「来るなら来い!」 怒声を放ったのは至極簡単な理由から。最初から言葉でどうにかなるという判断は捨てていた。迫る鋭利な殺気というものが身体の底を震わせようとするからだ。張り上げる声で弱い心を外へと追い出した。 「簡単にいくと思うなっ!」 接近は瞬く間に、二つの剣閃がロイの両脇へ突き刺さる。音も二つ、高い金属音に、鈍い擦るような音。左右からの同時攻撃をロイは剣と鞘で防ぎきったのだ。 受けた途端、ロイは剣を寝かして相 手の刃上を滑らせ鍔ごと手を押し込むと肩口を狙って切っ先を跳ね上げた。相手より確実に腕力で勝るという確信あっての力押しだ。同時に鞘の口を下へ向け、 応じて跳ね上がった鞘の先端が背後から再度切りつけようとした相手の短剣を弾き飛ばした。 両者、ロイを挟んで距離を取る。 振り上げた剣は即座に肩の高さまで戻り、一息の間を得た。 相手の服は随分と丈夫らしい。確かに刃を立てて斬ったつもりだったが、つっかえるような感触で切り裂くには至らなかった。だが、 「小僧………」 暗闇から響くような声は剣を受けた男の方だ。 手元の振るえが隠しようもなく見て取れる。肩口へ叩き込んだ一撃は斬撃としての意味は成さなかったが、打撃として考えれば十分な程の効果をあげた。見えはしないものの、すぐに受けた肩が腫れ上がるだろう。 「説明して貰いたいな」 ロイが見たのは今も武器を構える左右の男ではなく、正面、二人へ指示を出していた体躯の大きな男。クセのある黒髪に黒の瞳、構えすらしていないというのに圧倒的な威圧感を覚えずには居られない異様な雰囲気。 彼の足元で力無く倒れているのは、あの時山道で見た白髪の女だ。 事ここに至ってロイは彼女への恐怖や疑心を捨てた。 こんな人目に付かない様な場所で、女相手に三人がかりで武器を向けるなんて。 怒りで頭が沸騰しそうになるのを抑えて彼女へ目を向けると、その竜鱗に覆われた手が力無く握りこまれたのが見えた。 生きている、そう思えば力が湧いた。 「今助ける!」 呼応するように左右の二人が袖口から出した球体を足元へ放り投げる。ロイが斬りかかるより先に白煙が舞い上がり、視界の全てが奪われた。慣れない状況への焦燥はあったが、逆に開き直りもした。 見えないのなら、目を開けている必要はない。 その考えは偶然にも功を奏した。白煙には微量に催涙性の薬物が含まれており、もし目を開けたままだったなら、白煙が去った後も目を開けていられなかっただろう。 閉じた世界の中で、ロイはふと、風を感じた。 それは左右どちらからでもなく、目を向けていた正面。半歩横に移動して風が通り過ぎるのを待ち、剣を背後へ放り投げ、感じるままに地面の上へ足を滑らせる。刈り取るような足払いだ。 足先が何かを掠めるような感触を得て、ロイは身を前へ折り畳むようにしつつ左腕を伸ばす。 「(掴んだ!)」 それを巻き込むように引き寄せ、足で地面を蹴り、力任せに、 「おおおおおおおおおおりやあっ!」 放り投げた。 その行く末さえ気に留めずに鞘を取り外し、正面へ駆ける。 「(後一人!)」
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襲い来る男を冷めた目で眺め、ローティはため息をついた。 帰っていろと言われたもののロイをとりあえず追ってきたのだが、 「あの馬鹿はとかく面倒に首を突っ込みたがるらしい」 襲ってくる男の格好は見覚えのあるものだった。あの悪天候の中を突破するから護衛しろなどという依頼をしてきた者が引き連れていた、おそらくは私兵。 ロイにはまだ話していないが、違和感ならもっと以前からローティは感じていた。 なにせ荷馬車に乗っていた彼女に は、その積荷がおかしい事が良く分かった。まず中央に配置された荷馬車には厳重に固定された木箱と、それを覆うように細かい箱が幾つか。そこより後ろの荷 馬車には人が乗っているのを許容したものの、大きな木箱のある荷馬車には御者以外誰も近づくなとまで言われたのだ。 更には他の荷馬車に乗せられていたのはひどく雑多なもので、まるで近辺に並べてあった商品を見もせず買い込んだような状態だった。だというのに焦るようにキャラバンを出発させ、結果としてあんな事が起きた。 死んだ者達へはローティも彼女なりの思い入れがある。 もし仕組まれていたり、そうなる事が分かっていたとすれば、彼女としてもいささか以上の苛立ちを抱えないでもない。 棒立ちとなるローティへ何を思ったのか、ほんの少し勢いが弱まった。 警戒されてしまったかと少し反省する。ここで女の子らしく悲鳴でも上げていれば油断割り増し間違い無しだったろうに。 だが、それでちょうど良かったらしい。 徐にローティは歩を進め、その距離が互いに一歩を踏み込むまでとなる。 そこで相手の背後から飛来した抜き身の剣が陰気な男の足元へ見事に突き刺さった。姿勢を崩したのはほんの僅か。けれど、腕一本使えない上にこの援護は彼女にとって十分過ぎた。 「まったく、甘いなあの馬鹿は」 そこまでしての助けなど不要だと言いたい。 足手纏いに見られていると思うのは被害妄想だろうが、武器を失ってまでの援護は御免被りたかった。 「しかしまぁ、おかげで楽だ」 姿勢を崩した男は最後の一歩を強く踏み締め、強引に揺らぎを整える。 握り込んだ短剣、腕、肩、足と非常に力が篭っているだろう。繰り出す一撃は渾身で、故にローティにとっては好都合だった。 渾身とは、言ってみれば余裕の無い攻撃だ。 余力というのは重要で、咄嗟の機転が利いても余力が無ければ反応するには至らない。 「これでも私はホルノスに居た」 半歩後ろへ下がり、突き出された腕の袖口を的確に掴み取る。 「ホルノスでは昔から女でも若い頃は武芸を嗜む風習があってな」 引き寄せの力に反発するのは後ろへの勢い。しかし、余力が無かった分反応が遅れ、更に逃げようとする力は一層強く、 「まあ小娘が齧った程度の力量だ」 絶妙のタイミングでローティの押しが重心を貫き、勢いがやや上へと向けられ、男は後ろへ頭から転んでいった。 「ふむ………」 しばらく待つも、動く気配はない。 公園の入り口付近は石畳になっている、ぶつけるとかなり痛そうだった。
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白煙の中から抜け出したロイは周囲の様子を確認する。 正面で座していた男は出ていたのがロイであると確信していたかのように余裕の表情でこちらを迎えていた。やや大きい剣を鞘に収めたまま地面に立て、柄尻に手を乗せて、浮かべる表情はなんと形容したものか。 「同郷か。なるほどなァ、雑魚二人じゃ相手にならんのも納得がいく」 言われた言葉に、ほんの少し前ローティから言われた言葉を思い出す。ロイがここより北方、カストロフィアの血を引いているのではないかという話だ。カストロフィアの人間の特徴は概ね黒髪と黒眼。男もロイも同様の特徴だ。 「あんたはカストロフィアの出なのか」 「ああ、そうだ。なんだ、お前は違うのか?」 言われ、どう答えたものかと躊躇ってしまう。 ロイは孤児であり、拾われたのはホルノスだと聞いている。自分がどこの人間か、正確な所は分かっていない。 「な訳はないわな。今の戦い、最中にお前がしていた表情はまさに狂戦士のソレだ」 「狂戦士、だと?」 「俺達は戦場で生まれ、生涯を戦場で過ごす。戦いにあってこそ俺達は生きている実感を得られる。戦う為に生まれた人種みたいなもんだ」 「生憎と俺はホルノスの人間だ。そんなふざけた連中とは違う」 咄嗟に嘘をついた。 「そうか? それならそれでいい。少なくとも、あの腑抜けばかりな国にもまだ少しは期待が持てそうなもんだからな」 男は見事に蓄えた髭に手をやり、楽しげに言ってみせる。 どうやら、最初から話題にそれほど興味があった訳ではないらしい。戦いの中で言葉を交わしたがる酔狂者は意外と居るものだと聞く。 「ロイ、武器は容易く手放すな」 動きあぐねていると、ローティが後ろから剣を差し出した。勘を頼りに背後へ放ったものだが、彼女が無傷でいるならば危険を抱えた甲斐もあったというものだ。 「ありがとう」 「で、どうするよ?」 男が鞘から剣を僅かに抜く。 それは暗に、抜きたくて仕方がない、お前もそうだろ、と問い掛けられているようだった。だからロイは敢えて受け取った剣を鞘へ収めて言葉を放つ。 「その子、知り合いなんだ。何があったかは知らないけど見逃してやってくれないか?」 「知り合いねぇ」 言葉を吟味というより、こちらの態度に不満を向けての声だった。 「っははははは、なるほど、こいつは面白ェな。次々と役者が揃ってきやがる。そうか、これが”神の因子”とやらの力か」 「”神の因子”?」 問いを放ったのはロイではなかった。 「……なんだそれは」 普段は余裕を崩さないローティが厳しい表情で男を睨んでいる。元々が美人だけに横から見ていても妙な凄みがあった。 ロイは無意識に柄へ手をやりながら男へ向き直る。 「力だよ」 単純な話だと男は言う。 「今、っていうのは、過去があってこ そ存在している。過去無くして今は、そして今無くして未来は存在しない。ついでに言えば、過去という、一纏めにしても数え切れない程の事柄が世の中に蔓延 している。お前が煙の中でソイツを捕まえたのも、手を伸ばした先に居ると、そう判断出切るだけの原因を意識無意識問わず感じていたからだ」 「見かけによらず小難しい話をするんだな」 「言うなよ、ただの受け売りだ」 それでな、と男は腕を組んで笑みを濃くする。決して友好的ではない、ある種、弄ぶような気配さえ含ませた笑みを。 「原因、あるいは要素。そういったものが今を構成している以上、過去起きたあらゆる事象は世界とやらにその足跡を残している。つまりは、かつてこの地で数々の武勇伝、あるいは神話、伝承を残した英雄達、はたまた神とやらの”因子”も、ここに存在する」 ホルノスの建国神話は元より、この ノンスイーストにも、カストロフィアにも、名前も知らないような村落にさえ、数々の神話や伝承が残っている。ホルノス建国神話以前の空白期を抜け、未だ神 と人間が共存していた英雄期に、それより以前の神々の争いがあったとされる創世神話。更には生命という概念が希薄たった、より力が力として在った旧神時 代。 それらの『記録』が、この地には驚くほど明確に残っていた。 そしてホルノスの建国以前までは、己の身体から直接伝える力以外に、人は別の力を持っていたと言われている。 既に1600年以上も昔の、老人が子供へ寝物語として聞かせる程度の話だ。 「”神の因子”は、今も尚残る神話、伝承、伝説、それらの因子を基点に過去を今へと引き摺りあげる」 過去が今となる。 それは単純に時間の逆行を意味するのではない。 「つまりは」 過去に起きた事件や事象を構成する数多の因子、それを全てこの場に揃える事が出来たとしたら? 「この世に存在するありとあらゆる過去を再現する力だ」 そして今、男の足元に倒れ伏しているのは。 「”ルモリアの因子”を宿し、それに呑み込まれたコイツの運命はもう決まっている」
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夜の世界だけに、彼女は生きていた。 太陽というものを見た事はない。起きれば世界は真っ暗で、頭上にはいつだって黄金の輝きを放つ月があった。 月の巫女と皆が言っていた。 月の下でしか生活せず、その身に月の加護だけを蓄える、それが彼女の役割。 多くは聞かされていない。 欠けたり満ちたり、月の変化を日々眺める。 鼓膜をくすぐる様な虫の音と、やわらかに身を撫でる風と、あとは、なんだったか。 夜とは多くの生命が身を休め る時間だった。だから彼女と同じ人もまた、彼女が目覚める頃には静まり返っている。そもそも、人と会った事はほとんどない。時折目覚めの時間にどこかから か人の発しているらしい音が聞こえてくるが、それが何を意味しているのか理解は出来なかった。 彼女は常に一人。 故に言葉を交わす必要などない。 静かな夜の時間を透明に過ごす。 誰も居ない。彼女だけの世界。 不満は特に無かった。他の事など何も知らないし、不満という意味も、その言葉さえ彼女は知らない。けれど、そう、きっと寂しいという感情だけはあったと思う。 暗闇が彼方から追い立てられ、その色がうっすらと変わり始める頃、いつも過ごす祭壇への通路の中で見知った少女と交差する。 少女の肌はなぜか浅黒く、瞳は夜の色をしていた。 肌も髪も真っ白で、瞳が真っ赤だという彼女とは大きく違う。 少女と入れ替わりに彼女の世界は終わる。月の加護が薄れる前にいつもの場所に置いてある薬を飲んで眠らなければならないからだ。 お互いに言葉を交わしたことはない。 少女もまた言葉を知らないのだろうと思った。 だからだろうか、いつしか彼女は彼女の世界を奏でる虫の音を真似て、音を発するようになった。しわくちゃの人がそれを聞いて「月より授かった歌だ」と言って跪いたのを覚えている。音の意味は分からなかったが、何か悪い事をしてしまったのかと少々慌てた。 そしてある日、いつも通りに少女とすれ違う通路の中で、彼女は少女へ向けて彼女の世界の音色を聞かせた。その時の少女の顔は永遠に忘れないだろう。いつも彼女と同じように変化の乏しい表情が大きく動いたのだ。 しばらくして、少女も、少女の世界の音色を教えてくれるようになった。 少女の世界はとても騒がしくて、時に身を飛び上がらせるような大きな音を奏でたと思えば、冷え切った身体が奥底から暖められるような、そんな穏やかな音色を響かせた。 静かで冷たい夜とはまったく違う世界なのだと思った。 部屋を出て、祭壇へ向かう通路の中で。祭壇を出て、部屋へ向かう通路の中で。日々二人は己の世界を奏で、共有し、笑みを得た。 少女とのすれ違いだけが彼女の楽しみとなった。 会った後はいつだって心が弾む。そしてそれだけに、別れた後は心が冷たくなってしまう。彼女の世界が、次第に少女に埋め尽くされていった。透明だった時間には少女の事を考え、またあの表情を見てみたいと、聞こえた音色を口ずさむ。 ただいつからか、少女があまり少女の世界を奏でなくなった。 彼女は慌てた。様々な表情を見せる少女の世界に比べ、彼女の世界はあまりにも変化が乏しい。少女は、彼女の世界に飽きてしまったのだと思った。 心の底から震えが来た。 次第に己の世界を奏でる事さえ上手くいかなくなり、彼女は口を噤み、無言で通路を歩くようになった。 少女もまた、少女の世界を奏でない。 暗く沈んだ表情が日増しに濃くなり、ある時彼女は少女とすれ違う刹那、その浅黒い腕を取った。 驚きはおそらく彼女の方が大きかっただろう。 今まで音を交わす事はあっても、決して互いの道から逸れず、故に触れ合う事などなかった二人。少女の腕に触れた掌が燃え上がるように熱を発し、しかし彼女は離さず、悲鳴も上げず、少女の顔を見入った。呼吸が止まる。 黒の瞳から雫が流れ落ちた。 「ごめん……」 少女の発した音は今までのどの音よりも冷たく、消え入りそうな、そう、夜の音に思えた。 振り解かれて離した掌からほどなくして少女の熱が消える。 呆然と、何も考えられないまま部屋へ戻った。染み付いた動きで薬を手に取るが、そのまま動きが止まる。あの雫は何なのだろう、あの音は何なのだろう。知らない世界の事だろうとは思う。だが、あの音の並びは、稀に会うしわくちゃの人が発する音の並びに似ていた気がする。 きっと、言葉だ。 どこで少女は言葉を知ったのだろう。 どこで? 誰から? ………………………………………………………………………誰か? 言葉を得たから少女は音色を奏でなくなったのだろうか。興味を失ってしまったのだろうか。逆に興味を持ったのだろうか、その誰かに。 「ぁ」 我に返れば、部屋の上部にある小さな窓から明かりが漏れ込んできていた。 彼女は慌てて薬を飲もうとし、しかし、その明かりが見覚えのあるものだと気付いた。祭壇や通路の各所に設置されている篝火、炎の明かりだ。 だがその明かりは見たこともない程に大きく、また強い。 ダン、と扉が開け放たれ、覚えのある顔が覚えの無い表情をして飛び込んできた。 「巫女様! こちらへ火の手が及んでいます! どうか一時私めとご同行下さい!」 音を並べるや否やその人は彼女の手を取り走り出した。走ると言っても、彼女はこれまで歩く以上の運動などした事が無い。呼吸は瞬く間に乱れ、足が絡まり崩れ落ちる。 ただそれが幸いした。倒れた彼女のすぐ上を横合いから噴出した炎が掠めたのだ。 悲鳴を上げて彼女の手を引いていた人が倒れこみ、動かなくなる。 目の前の状況が理解出来ず、故に彼女は呆然と倒れた人が起きるのを待った。どうすればいいのかが分からない。物心ついたときから彼女がしてきたのは、部屋で起きて、祭壇へ行き、時間になったら部屋に戻り、薬を飲んで寝る。その繰り返しだ。 そこから離れた状態でなにをすればいいのか、彼女は知らない。 きっとこの人が導いてくれる。もしくは別の誰かがそうするだろうと思っていた。 けれどいつまで待っても倒れた人は起き上がらず、そして――――そして、降り注いだ瓦礫の山に、彼女は悲鳴も上げず押し潰された。
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それは果たして悲鳴だったのか。 「まあ、あくまで基本となるのは宿した人間だ。中途半端に交じり合った自我はひどく歪な状態になるらしいが」 体内の臓物を纏めて吐き出したような絶叫と共に白髪の女が転げまわる。 竜鱗の腕を振り回し、地面を大きく抉り。 見開かれた真紅の瞳は焦点の定まらぬまま瞳孔が開いていく。 「ぁ…………つ………、あ、つ………………………い……いいいいいいいイイイイイイ!」 女は顔を、首を、肩を、手を、胸を、全身をまるで火に炙られているように熱を払おうとし、肌を掻き毟る。力の加減も知らないそれは忽ち真っ白な肌へ血の赤を広げ、しかし、それは程無くして透明な液体となって肌から浮かび上がっていく。 「あああああ! あ………あ、ぁ」 「黒巫女ルモリア」 悲痛な喘ぎの中に、ローティの暗く重い声が混じる。 「なるほど、サルヴェルとはそういう事か」 「何言ってんだローティ。お前、あんな話――――」 「目の前で起きている事を直視したまえ。魔法、いや魔術か? 奇跡と言うのかもしれんが、どちらにせよ、人が長年積み上げてきた常識を覆す事実がそこにある。英雄期の末、古い山村で行われていた双子巫女の伝説を知っているか?」 「ルモリアって聞いて………なんとなく思い出したは思い出したけど…」 確か、今のホルノスとノンスイーストの国境線上にあった巨大な泉を要する村での話だった筈だ。大陸を縦断する程に長大なグリヘン山脈において、そこを行き来するのに重要な拠点となっていたという泉。今では干上がって泉の面影も木々に飲み込まれているらしいが。 「月の巫女ルモリアと太陽の巫女アポリス。双子の姉妹は出生と共に巫女として奉られ、その身に月の力と太陽の力を宿した二人は泉に住む神竜への供物になる筈だった」 「けどアポリスは山脈を越える途中で村に立ち寄った青年と恋をして逃亡した。残ったルモリアはその失態の怒りを鎮めるべく神竜へと捧げられた、だったか?」 「あぁ。けれど泉へ投じられ供物となった巫女は突如、巨大な竜を伴って村を襲った。村が崇めていた神竜は、水を司る水竜の系譜だった」 『ルモリア』が喘ぎを止め、糸か何かで吊り上げられているかのようにゆっくりと浮かび上がる。傷口から流れ出すのは最早血液ではなく、神の力を伴った水だ。 多量の出血など意味を成さないのだろう、全身の血の量を明らかに超えた水が螺旋を描いて彼女の周囲に布陣する。まるで『ルモリア』に力を与え、生涯守り続けた水竜のように。 「今の話をすべて鵜呑みにするのな ら、彼女は他者と相容れる事はない。妹に裏切られ、村人からは訳の分からない事を言って殺されかけ、強大な力を手に入れた黒巫女ルモリアはその力を振るっ てそれこそ山のような人間を殺しつくす。自分を捨てたアポリスと利用してきた村人達への復讐の為に」 「待て! その、俺はそういう話はあまり詳しくないんだけど、その話って悲劇で終わるのか!? それが過去だってんなら今この街が存在してる事だっておかしいだろ!?」 ”神の因子”は過去を今へ引き摺り出し、再現する力だと黒髪の男は言った。ならばそれは事実としてあった事なのだろう。つまり、黒巫女ルモリアの話は何らかの形で決着が付いている筈だ。 「サルヴェルという名に覚えはないか」 名、とローティは言う。 少しだけ感じていた嫌な予感が一気に押し寄せてきた。それは物品を指しての言葉ではないだろう。 『ルモリア』を包む水流の渦がとうとう仰ぎ見るまでの高さへ至った。 「月の巫女ルモリアを捨てて逃げた太陽の巫女アポリスは、結局村人らの手によって捕らえられ、男共々殺される。しかしそこを更にルモリアの襲撃を受け………一族の残党はいずこかへと流れたと言われている」 復讐は中途半端に果たされた。悲劇というなら、そこで終わっても良い筈だ。だがそうだとするならサルヴェルという名が出てくる必要はない。 この話には続きがある。 「サルヴェルというのはな、アポリスが共に逃げた男との間に宿した子供だ。そして、いずれは、ルモリアを討って英雄となる」 ふざけた結末だ。 復讐に継ぐ復讐。結局怨嗟が止まる事は無く、全て一方的に押し付けられてきたルモリアが悪として扱われて殺されるなんて。 「親の仇か………くだらねぇ」 「それならいっそスッキリした。だがこの話は更に複雑だ。何せアポリスの残したその胎児を存命させ、共に幼少期を過ごしたのはルモリアなのだから」 「おい、それならなんでルモリアを討つなんて話になるんだよ!?」 親の仇だから? だから育ての親を殺せるのか? ロイはますます訳が分からなくなる。ロイもまた親に捨てられ、孤児院で育った人間だ。だがどんな事情があったにせよ、共に過ごした仲間達を手に掛けるなんて考えられない。 もしそれが出来るなんて人間はきっと間違ってる。 「物心付く以前に、村人らの残党がル モリアの元から奪い、儀式場を奪い返す為に徹底した教育を施したとしたら? 自我を奪われ、徹底的に対象を殺し尽くすような、化け物となっていたとした ら………魔術とやらのあった時代なら、まあよくは分からないが、不可能ではないように思う」 それが結末。ふざけた悲劇に悲劇を重ねて、下らない連中の為に、おそらくは最愛の人の子に殺される。それがどれほどの苦痛なのかロイには想像も付かない。 「一つ忘れているようだから言っておこう」 更に、ローティは絶望的な一言を放つ。
「『ルモリア』を討つのは、彼女に『サルヴェル』と認識された君の役割だ」
「な!?」 言われて気付く。 あの崖の下で確かに彼女は言ったのだ。ロイを見て『サルヴェル』という名を呟いた。そう、まさか自分へ向いてるなどと考えたくなくて停止していた思考が一気に動き出す。 もし”神の因子”なる力が本当だとして。 彼女が『ルモリア』なのだとして。 ロイが『サルヴェル』なのだとして。 未来を形作る”因子”が既に存在しているのだとするなら。 ロイは、彼女を殺さなければならない。そうしなければ山のような人間が死ぬ。 「ふざけるなよ! そんなの出来る訳無いだろ!?」 「ならば今すぐにでもこの街が消し飛ぶかもしれんぞ?」 「っ、そ、れは……でも、俺が………」 知らず手が震えた。そうだ、あの山賊の襲撃でも結局ロイは誰も殺していない。傷を与え、致命的な場面を生み出しはしたが、深々と肉を断つ、あるいは突き刺す感触を未だ知らないのだ。 見ないふりをしてきた殺人への恐怖。 決意はあった。覚悟もしていた。けれど現実は想像を遥かに超えて重い。 とどめの一撃を繰り出した瞬間に訪れる心臓を捻じ切られるような痛みは今も覚えている。 「いや! そもそもそれが確定しているなんて理由はどこにもない! 彼女と一度顔を会わせたのは確かだけど、だったらそれを切っ掛けに止める事だって出来る筈だ!」 ロイはローティから受け取った剣を投げ捨てる。 武器なんていらない。彼女はきっと怯えているだけだ。落ち着いて話せるならそれに越したことはないのだ。ロイは無理矢理にそう考え、決断した。 螺旋を描く水流へと手を伸ばす。 黒髪の男は興味深そうにこちらを眺めている。手を出してくるつもりが無いのは助かった。目の前で争いなんて起こせば余計に怯えさせてしまうだけだ。 ローティから目を背けたまま、『サルヴェル』は『ルモリア』の元へと歩いていった。
※ ※ ※
そっと目を伏せた。 ロイが言ったように、確かに止める事が出来るだろう。『サルヴェル』たる彼ならば。 破壊の限りを尽くした『ルモリア』がその手を止めたのは『サルヴェル』を得たからからだ。裏切れど、最愛の妹の子。『ルモリア』は全身全霊で以って愛情を注ぎ、育てたと言われている。 状況を整理するに、今『ルモリア』が起こそうとしているのは裏切りによる怒りの発露。 それが起こる前ではあるが、前倒しに止める事は可能だろう。なにせ二人は既に『再会』を果たしているのだから。 多少の操作や矛盾は許容される。 その中であっても”因子”と呼ばれるものが未来への道へ次々と楔を打ち込んでいく。 「いいのか、ロイ。分かっているだろうに」 『サルヴェル』は『ルモリア』と過ごした後、その元から連れ去られ、一度の再会を経て、次に出会ったときは殺し合いが始まる。あの黒髪の男が言ったように、彼女の命運はもう決まっているのだ。 「お前は今、自分で自分の傷を大きくしようとしている。一時でも共に過ごした人間を殺すというのは、計り知れん苦痛だぞ」 それでも彼は挑むのだろう。 馬鹿な男ではない。表面上はなんと言おうと思おうと、裏では確実に真実の見極めが出来ている男だ。その上で抗おうとする、そんな男なのだ。 「いっそ、ここで『決着』とするならば苦は少なかっただろうに」 無手のままにロイが歩いていく。 『サルヴェル』の姿を見た『ルモリア』の表情が変わる。それは、暗く重い世界の中で唯一の拠り所を見つけた雛鳥のようであり――――そして次第に、穏やかな、子を慈しむ母のようにと変じていく。 「見つけた。愛しい、私の――――サルヴェル」 『ルモリア』が満ち足りた表情でそう言ったの聞いて、ロイの表情が辛そうに歪むのを、ローティはじっと眺めていた。 彼の勘ならば、既に感じている事だろう。 自らの運命というものを。 それでも、 「馬鹿者が」 それでも、決意を秘めた表情へと移ろうロイを見て、ローティはそう呟かざるを得なかった。 「馬鹿者が……」
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