「いってえ!!」

 町の詰め所、木箱を並べただけの寝台とも呼べないような場所に寝そべったロイは、消毒液の痛みに声を上げた。

「上手く立ち回れば君がここまでなることも無かっただろうに。余程あの女の子の前でいい格好をしたかったと見える」

対し、それを弄ぶ様な笑みを浮かべて眺めるのは、北方より流入してきた眼鏡を掛けた少女。歳の頃合はロイより少しばかり上といった所だが正確な年齢はロイも知らない。

 ホルノスの生まれで、名前はローティという。本を読むのが好きらしく先の妙な口調も物語の登場人物を真似ていると、これは本人談。

 それ位だ。

「俺は必死にやったよ。訓練と実戦は大きく違うってのは分かってたけど、それでもこれで精一杯だった」

「そうだねそうだね、可愛かったんだよね」

「そういう話じゃなないっ!」

「はいはい」

 言いつつ、脇腹の傷へ消毒液を染み込ませた布が押し付けられる。

「っ!? のっ、やろぉ……」

「うん、しっかり毒抜きはされているな。解毒剤も飲んでいるし、多少残っていても死ぬことにはならないだろう」

「今のでどうやって判断したんだよ……」

「君が自分で大丈夫だと言ったんだろう? なら大丈夫だ」

 医者の台詞じゃないな、と言おうとしたが、その前にまた傷口から痛みが走る。

「君の勘というのを私は個人的に信用している。直感で大丈夫だと感じたのなら、まあ大丈夫だろう。また解毒剤を処方するのも勿体無い。経費で落ちるといってもこの辺りでは値も張る品だしな。それに私は医者ではない。その知識を持っているだけの素人だ」

 最後にポンと傷口を叩かれたのにロイは一瞬身を硬くし、身を起こして立ち上がった。

 右手を強く握り、離すの繰り返す。肩を回してみても、筋肉を伸ばしてみても特に痛みはない。

「勘ねぇ……」

 多くの人に言えば笑われるような理由なのだが、ロイ自身も己の勘は人より優れていると思っている。先の戦いで死角から飛来した矢を受け止められたのも、次々襲い掛かってくる賊へ怯まず攻めていけたのも、そうすれば良いのだという直感があったからだ。

 その日の天気から探し物、分かれ道での選択。何気ない所から試験の解答に至るまで、流石に全てが的中しないにせよ、かなりの確立で当たる。

「それにしても、やはり君はカストロフィアの血でも引いているんじゃないか? これだけ頑丈な体で、再生も常人よりずっと早い。飛竜を相手に一人で立ち回れるという化け物揃いのあの国なら、こういう事も納得がいくのだが」

 どうでもいいとロイは聞き流した。

 自分の両親や、出生なんてもう興味は無い。

 ロイはホルノスで育ち、いずれはホルノスで死ぬ。そのつもりだ。

「一度行ってみれば意外と何か分かるかもしれんぞ。カストロフィアへの商船の護衛依頼が斡旋所に届いていたし、次はそこへ回るのもいいかもしれんな」

「この一件が収まったら一度ホルノスに帰るよ。孤児院へも顔出しときたいし、時期的に降臨祭も近い」

「……革命から七年、敢えてこの時期に復活させるというのはどういう意図なんだろうな」

 ローティが生まれ、そしてロイも孤児院で育ったホルノスという国。七年前の革命で王族全員が死亡し、政権が入れ替わったその後も、名前も宗教もそのまま残した。ホルノスという国の根幹にあったモノまでは否定しないという意図で。

「簡単に考えれば、内乱に乗じて侵攻して来たエオルドとの決着も付いて、国内に蔓延っていた山賊連中を殲滅し終わり、尚且つ各地の統治や政治的な基盤もしっかりして余裕が出てきた、って所じゃないか?」

「微妙な所ではあるがね。現政権は、前王権を担っていた者達を皆殺しにしている。国の興りから考えれば、彼らが降臨祭を行うというのは反感を持たれないのかね?」

「ホルノスを建国した大天使セイラ ム、その血を継ぐ王族を殺しておいて、って言うんだろ。けど、王族は城内で全員自決したっていうのが現政権の公式発表だし、当時の王妃であるセシリア=メ イ=アークカイプ直筆の証書も公開されてる。これ以上無用な血を流すことが無い様に、って。俺も見に行った事がある。それに、疑い出したらキリが無い」

「その曖昧な話が王妃や姫の生存話やら、そういった事にも繋がっていく訳だ。知っているかい? あの革命を仕組んだ組織があり、生き長らえた姫君がそれを追っている、とか。あるいはセイラムの奇跡によって甦った王族達が密かに異邦へ流れ、再起を狙っているとかなんとか」

「そんな講談師が商売の為に始めたような話を」

「仮に生きていたら、ロイ、君はどうする?」

 問い掛けに即答は出来なかった。不 意に思考が深い所へ手を伸ばし、過去の映像を想起させる。碌なものではない。戦火というのは男も女も、子供も大人も老人も、分け隔てなく死へ追いやる。そ れは戦いが終わった後も、思わぬ形で襲い掛かってくる。エオルドの残党や行き場を失った者達が山賊として各地を荒らしたのが代表的な例だ。

 もしあの時王族が自決せず、政治からは離れつつも神殿でその威光を発揮していれば。

 それを現政権は許さなかっただろうし、ロイの勝手な望みでしかないが、革命後のあの混乱が少しでも緩和されたのではないかと、そんな事を考えた。

「恨み言の一つ二つは言いたくなるのかな」

 胸の内に沈殿した淀んだ感情、そこから逃れるように視線を彷徨わせれば、部屋の前を見慣れた一団が通り過ぎた。今回の仕事を依頼してきた男とその周りに侍っていた数人、それに隊長の姿だ。

 特に考えもせず一団を眺めていたら、不意に最後尾に居た男がこちらを見た。黒髪に黒眼という、ホルノスやここノンスイーストでは珍しい、ロイと同じ特徴の男だった。

 それに何かを抱くより先に姿が見えなくなり、視線を元に戻す。

 ロイの視線を追ってか同じ方向を見ていたローティと目が合い、

「なあローティ」

「なんだね?」

 名を呼ぶと、彼女は顎に手を当てたわざとらしい所作で聞き返してきた。

「お前も見てたろ、あの山賊の動き」

「あぁ、戦っていた君達よりずっと冷静に。怪我人が増えた終盤はそんな暇も無かったが」

「どうだった?」

 眼鏡の弦を中指で押し上げ、ふっと笑いが漏れる。

「何を考えているんだい?」

「……あの山賊は、統制が取れ過ぎてた。あんな急な仕事で、あんな雨の中なのに、あいつらは何で襲ってきた」

「山賊がキャラバンを襲う理由は一つだろう」

「あの雨の中、来る確立が限りなく少ない状態で待ち伏せていた。傭兵の数も多くて、連中からすれば危険の方が大きかったのになぜ襲ってきた。あれだけ大勢死んでいたのに、あいつらは限界まで引かず戦ってた。とても山賊とは思えない行動だ」

「すべてに整合性ある答えを求めるのは無理がある。偶然誰かが発見したのかもしれない。あの山賊がもしかしたら、元は軍隊として動いていた残党かもしれない。どこかの宗教の、狂信的な信者だったのかもしれない。疑い出したらキリがない」

 確かにそうだ。

 急な仕事も、依頼主が荷物の内容を明かさないことも決してありえない事ではない。むしろ、護衛を任務とする傭兵が運ぶ物資の一つ一つを把握している方が珍しい。けれど、今回の行程はホルノスから国境を越えてノンスイーストへと至る道だ。

 ノンスイーストの規制や管理は特に厳しい。

 危険なものを運んでいたとは考えにくい。

 けれど、

「そういえば、君は落ちた馬車を確認しに行ったのだったな」

 眼鏡越しにローティの視線が突き刺さる。

 同年代の少女でしかないローティだが、時折驚くほど鋭い視線を感じる事があった。まるで審判を受けるような気分で、声を抑えながらロイは話し出した。

「あの時、あそこには俺達と山賊以外に、誰かが居たんだ」




   ※  ※  ※




 やや不安定な立ち方をする机でサインをする。

 混ぜ物が随分と多いらしい用紙の上、黒のインクが描くのは『クゥナ』という三文字。それはかつて少女が得た第二の名前であり、本当の名はシルメリアという。だが少女はその名を誰にも告げるつもりは無かった。

 目的の為に邪魔になるのならば、母から授かった名も捨てる。

 そう考えて、山道での一件を思い出し表情が暗くなる。言葉が、あれから何度も耳の奥で響いていた。少しだけ目を瞑り、開く。映ったのは書き終えた契約書で、内容は主に依頼を完遂した傭兵斡旋所に対して成功報酬を支払います、というもの。

 ノンスイーストにも国軍があるとはいえ、全てのキャラバンや町を行き来する者達を警備など出来ない。故に様々な規制や規則を経てこの国では傭兵が容認されている。この成功報酬の書類も言ってみれば傭兵達の仕事内容や成否を逐一報告させる為のもの。

 受付の無表情なおじいさんへ紙とお金を提出し、それから丁寧に礼をしてクゥナは詰め所へ向かう通路へ入っていく。

 慣れない場所、人の多い場所というのは緊張する。目深にフードを被り、顔を隠して廊下を歩く。さっさと通り過ぎてしまえば、多少目を向けられる事はあっても追って話をしようとまでは思われない。

 彼女なりに培ってきた経験だった。

「ここまで関わった以上、我々も引き下がる訳にはいきません」

「必要ないと言っている。こちらには手勢も居る。捜索は我々で行うから、君は連中を引き上げさせたまえ」

「部下が大勢やられている。それも契約に反した任務で」

「その分も金は追加で払った。十分過ぎる額をだ」

 やけに騒いで歩いてきた一団に道を空け、壁に背を付ける。

 見覚えのある人が居た。クゥナが同 行させて貰ったキャラバンの中心となっていたおじさんに、その護衛を受けていた傭兵の隊長だ。後ろには見慣れない格好の人が三人。陽気で豪快だった傭兵達 とは根本的に雰囲気が異なる、どこか湿っぽい匂い。暗い緑色の外套は、山師を思い浮かべる。そして最後尾に居た黒髪の男。人影に居たのでほとんど見えてい なかったのだが、彼の顔がこちらに向いたと気付くやクゥナは顔を俯けて隠した。

 こちらに気が付くと、二人は口を噤み、足早に通り過ぎていく。

 気にはなるが、今ここへ来た目的は別にある。気持ちを切り替えてクゥナは歩き出した。

 奥からは喧騒が聞こえてくる。世話になった傭兵達が大勢詰めているだろう場所。少し行くと、開け放たれた扉の向こうに彼の背中が見えた。

 治療を行っていたらしく上半身に遮るものはなにも無い。クゥナは思わず声を出しかけ、慌てて口を塞ぐ。触れた手以上に顔が熱くなっているのが分かる。部屋から出てきた人へ背を向けてやり過ごし、深呼吸を繰り返す。

「うんっ」

 気合を入れなおし、向き直る。

 と、そこで立ち上がった彼の正面に知らない人が居るのに気付いた。

 理知的な女性だ、と彼女は思った。立ち振る舞いがどこか演劇じみているが、落ち着いた口調が違和感を感じさせない。栗色の髪は後ろで三つ編みにされ、掛けている眼鏡も彼女に似合った一品だ。

 何故か、脳髄が揺さぶられるような感覚。遠い日、いつか会ったような気がする。けれど詳しいことは何も思い出せなかった。

 いや、今重要なのはそこではない。

 クゥナが改めて少年へ目をやると、

「あの時、あそこには俺達と山賊以外に、誰かが居たんだ」

 そんな、不穏な言葉を聞いた。




   ※  ※  ※




 襲撃から怪我人や生存者の確認と、あの後もロイは動き回っていた。

 矢に毒が塗られていたらしいという情報もあって矢傷を負った者は安静にしているが、ロイは血抜きだけ行って捜索隊に参加した。

 助けられなかった、自らの慢心が招いた犠牲者でもある、先輩。

 そんな言い方をすればきっと叱られただろうとは分かるが、理屈で感情は誤魔化せない。

 毒が回っていた彼が、あの急斜面を落下して生きているとは流石に思っていない。けれど、例えどんな状態であれ遺体を野ざらしにしていたくはないのだ。

 早々に馬車が転がり落ちたらしい痕跡を見つけ、そこから五分と歩かない場所に大きく破損した馬車を見つけた。車輪や扉、窓硝子の破片、積まれていた荷物、いろんなものが散乱していた。幸い荷馬車もすぐ近くに見え、遠目からして木箱は無事なようだった。

 ロイはこの近辺に生息する鳥の骨から作った笛を吹き、仲間へ知らせる。

 周辺にはまだ山賊が居るかもしれないのだ、声を出して居場所を知られたくは無い。

 散乱した馬車の破片を注意深く観察しながら、比較的形の残った残骸へ辿り着く。壊れた扉に掛けた手が震え、意図せず唾を呑み込んだ。呼吸が止まる。

 キィィ、とやけに抵抗も無く扉が開いた。

 中を見て、ロイは顔を顰める。

 誰も居ない。荷物が散乱しているが、そこに先輩の姿は無かった。幾分安堵する思いを振り払い、反対側や周辺へ目を凝らす。しかしどこにも見当たらない。

 まさかと過ぎった可能性を否定する。

 思わず聳え立つ崖を見上げ、ため息。

 あれで生きていられる筈がない。

 しかし、遺体が見つからないことには不安が残る。山の動物がこの短時間に持っていったとも思い難い。ならば途中で投げ出されたのだろうか。扉の片方は来る途中に見つけたのだから。

 まずは依頼主ご要望の荷馬車を調べてからにしよう。

 そう思ったロイは馬車から離れ、荷馬車へと駆けていった。

 その途中、誰かに見られているような感覚を得て振り返ると、馬車の向こうからボロボロの布を纏った何者かがこちらを見つめていた。

「誰だ!!」

 声を張り、剣の柄を握り込む。

 まだ抜剣はしない。用心深く周辺へ視線を巡らせるが、ボロ布の人以外に人の姿は無かった。

「顔を見せろ!!」

 こちらの言葉をまるで理解していないのか、まったく反応が無い。

 そこでふと、ロイは決定的な事を思い出す。彼が立っているあの周辺、馬車の内部に至るまでをロイは確かに確認した筈だ。崖まで見上げて、木の上や馬車の影にも人が隠れられそうな所へは目をやった。

 ついさっきまで、そこには誰も居なかった筈なのだ。

 自分を過信する訳ではないが、ここまで気付かれず接近されたとも思い難い。それだけの時間は間違いなくなかった。

 頬を冷たい汗が流れ落ちる。

 全身をボロ布で隠しているのが余計に不気味だった。見えもしない眼光に射抜かれたような気がして、ロイは指一本動かせずに立ち尽くしていた。

 ボロ布の何者か、そいつはひどく緩慢な動きでこちらに手を向け、それを見てロイは息を呑んだ。

「なんだよ……その腕…」

 見えたのは、竜鱗。

 魚とは明らかに違う。ここよりずっと北方にあるカストロフィアという国に生息するという空を飛ぶ竜。その鱗を剥いで作った鎧を見たことがあったが、それと何ら変わらないものが、何故か人の腕を覆っていた。篭手とは違う、人体と同化している皮膚そのもの。

 緑色の、竜の腕。

 赤い爪はまさに血の色だ。

 その、おそらくは人刺し指がロイへ向けられる。

 正直生きた心地がしなかった。真っ赤な爪が今にも伸びてロイは心臓を貫かれるような恐怖すら感じていた。

 声が出たのは、きっと命乞いみたいなみっともない理由からだ。

「アンタは何者なんだ……」

 問うた瞬間、背後から体ごと煽られるような風が吹いてロイはよろめいた。それと同時に、ボロ布に覆われていた相手の顔が暴かれる。

「な……」

 女だった。

 真っ先に目を引いたのは所々に赤を含んだ白髪。それが一瞬血痕のように見えて胸を掌で押されたような錯覚を得る。病的なまでに青白い肌には部分的に竜鱗が浮かんでいて、明らかに彼女が人とは違う存在だと教えてくれる。

 その瞳は時折見る紅い月を思い浮かべた。

 禍々しい右腕とは対照的に、左腕は掴めば折れそうな程やせ細っている。顔立ちもどこか線の細さを感じさせ、もし竜鱗さえ無ければ心配が先に立つような姿だ。

「見つ……けた…わた、しの…………」

 傷んだ戸板から吹き込む風のような、掠れた細い声。

 内心ではこの異様な姿の女が返事をするとは思っていなかったのだろう、自分でも驚くほど体が震えた。けれど、どうにかして声を絞り出す。そうせねばならないと、理屈の無い衝動に突き動かされて。

「見つ…けた? ………何を?」

「いと、しい………わ…たしの……」

 言葉に耳を研ぎ澄ましていると、斜面の上から声が聞こえてきた。おそらくはロイの合図を聞いて集まってきた仲間だろう。だが何故か、ロイは焦った。彼女をこのまま見せていいのかと、意味も分からず頭を巡らせた。

「お〜い、ロイ〜」

 幸いにも彼女は馬車の影になっていて見えないらしい。

 だからロイは一度彼らへ向き直り、指を指す。

「荷馬車はあっちだ!」

「サル…ヴェ、ル………」

 呟きに慌てて彼女を見るが、そこにもう彼女の姿は無かった。

 すぐさま馬車まで駆け寄り、くまなく探してみるが見当たらない。現実感の無い出来事に今見聞きした全てが嘘だったかのように思えてくる。

「どうした?」

「っ!?」

 すぐ後ろから肩を叩かれ、ロイの身が跳ね起きた。相手もそれには驚いたようで目を丸くしていたが、やがて沈んだ表情となる。

「アイツの死体は別働隊が発見した。最後まで人を助けて、アイツらしい死に方だったんだろうな……。顔を見たければ先に戻っていろ。ここは俺達だけでもなんとかなりそうだ」

「いいえ………手伝わせて下さい」

「そうか。なら来い」

 気持ちを切り替えた。

 今見たことは後で報告すればいい。情報を整理するのも、それを判断するのも隊長が行うだろう。末端のロイがあれこれ考えた所で情報が少なすぎる。

 既に固定の縄を外し終えていた荷馬車の上に数人の男が乗っている。

 大きい木箱だ。これに何を入れて、どこへ運ぼうとしていたのだろうか。

「ん?」

 荷馬車に自分も乗ろうとして、ロイは木箱の角が破損しているのに気付いた。それほど大きくない穴で、腕をなんとか突っ込めるかという程度のモノ。

 嫌な予感がした。

 きっと、これは知らない方がいいのであろう事。

「ん、軽いな」

「おい、下で受け取ってくれ。持ちにくいが二人でいける」

 その穴から見えた箱の中には、彼女が纏っていたのと同じボロ布があった。

「ロイ、持てるか?」

「はい!!」

 受け取った木箱は、中身が抜けたように、軽かった。




   ※  ※  ※




 言ってみて、自分でもおかしな話だと思った。

 思わず笑いが漏れるのも無理は無い。あまりにも現実離れしていて、酒場で一杯引っ掛けながら肴程度にするような話題だ。こういうのは、流れ者が村へやってきて私は神の啓示を受けてここへ来ましたなんていうようなモノと大差が無い。

 ホルノス王権が革命によって滅んだ後、各地でそんな神の名を語って村からなけなしの食料や物資を奪う事件が横行したという。

 かつてホルノスを作り上げた大天使セイラムの、その子孫たる王族を否定しておきながらも、人々は神への信仰を完全には捨てていない。

「この話、他の誰かには話したのかい?」

 比較的落ち着いた声でローティが言う。

 呆れているのか、彼女にしては珍しく力無い動作で木箱へ腰掛けた。

「いいや。隊長には何度か話そうとは思ったけど、雇い主との話で忙しそうだったし。町に到着するまで油断出来る状況でもなかったしな」

「そうか、まあしばらくは忙しそうだったから、話すにしてもまだまだ先になるだろう」

「その間に話さない決心がつきそうだ」

「ならそうしたまえ。ただ、その竜の鱗を持つ女が言ったというサルヴェルという言葉には聞き覚えがあるな」

「本当か?」

 問うと、ローティは楽しげな笑みを浮かべた。

 いつも通りの、わざとらしい笑みだ。

「何かを言って、本当か? と尋ねられるのは本でも良く見る問答だが、そもそも嘘を言ったと思っているのではないのに何故事実関係を尋ねるのだろうな?」

「言葉遊びなら後にしてくれ。それでローティ、なんの言葉なんだ?」

「さて、いつか見たような記憶があるだけで確信ではない。ここまで出掛かってはいるんだがな」

「そうか」

 サルヴェル。

 ロイにはそれがどんな言葉なのか判断がつかない。勘が良いといっても望む時に好きなように働く訳ではない。

 みつけた、わたしの。

 いとしい、わたしの。

 言葉から察するに、形あるものだろうとはおもう。

 だがあそこにはサルヴェルなんていう商品は無かった。いや、一つだけ可能性はある。勘でもなく、単なる憶測に過ぎない。ただ嫌な予感だけが纏わりついて考えないようにしている可能性。

「少し調べてみよう。ここには小さいながらに図書館もあると聞いた」

「そうか、ありがとう」

「礼などいらん。君には借りが山ほどある。それを返し切るには一生を掛けてやるしかない。好きに使ってくれて構わんよ」

「だからいいって、俺は大したことはしてない」

「まあこの話は置いておこう。それで、そろそろあそこのお譲ちゃんの相手をしてやれ」

「え?」

「扉の向こう」

「あ……」

「……どう、も、です」

 そこに、あの時馬車の中に居た女の子が立っていた。




   ※  ※  ※




 突然目を向けられて、クゥナの心臓が跳ね上がった。

 どうしよう。立ち聞きしていたのが完全に知られてしまっただろうか。逃げ出したくなって、けれどここで逃げたら次はもう話掛ける機会が消えてしまいそうで不安だった。

 外套の中でこっそり手を握り締める。

 少しだけ雨に濡れ、湿っぽくなった外套。

「あ……ぁ、あ…あの!!」

 あの時はあれだけ簡単に言葉が出たのに、今は上手く言えそうに無かった。そういえば夢中になってとんでもなく失礼な事を口走ってしまった気がする。咄嗟に感じたことを言ったような記憶があるが、バカみたいに的外れだったらどうしようと今更ながらに後悔した。

 恥ずかしくなってフードを目深に何度も被りなおす。

「あの」

 少年の声。

 低くて、やわらかい、男の子の声。

「はい!」

 ドキリとして返事に妙な力が入って しまった。どうしよう、これ以上ないくらいに恥ずかしい。頭のおかしな子だと思われただろうか。やかましい鬱陶しいなどと思われていないだろうか。あぁそ れに声が大きくなってしまったので何人かがこちらを見ているがバレてはいないだろうか。不安がぐるぐる頭の中を巡っている。

「あの時はありがとう」

「え?」

 礼を言われてしまった。

 理解が追いつかない。

「君が声を掛けてくれなかったら、俺は馬鹿な事をやって死んでたかもしれない。それと、先輩の事は、ありがとう」

「そんな……私はっ、…結局」

「先輩がああなった元を正せば俺の責任だ。君が背負う事じゃない。それに、もっと大元を辿れば襲ってきた、先輩を射掛けた山賊のせいだ」

 無理をしている。なんとなくクゥナはそう思った。

 こちらに罪悪感を抱かせまいと、言葉を尽くして励まそうとしてくれている。お互いに、あの人への意識は消えないのかもしれない。ずっと後悔し続けるのかもしれない。けれど今は、彼の気遣いが嬉しかった。

 いけないのに、冷たく痛む心が僅かに弾む。

 この話題の切り出しも、敢えてしたのだろう。二人の関係はあそこから始まった。会話をしていけばいずれ話題に上がるだろう事を予測して、気持ちの上で整理しやすい最初を選んだのだ。

「ありがとうございます」

 だから、こちらも返すべきだ。

「貴方たちのおかげで、私は今こうして生きています」

「そう…か。それは良かった」

 悲しそうな笑みを浮かべる少年。きっと今自分も同じような顔をしているのだと思う。

「それで、用件はなんだい? お嬢ちゃんが態々この話の為だけに来たとは思わないが」

 お嬢ちゃんと呼ばれ、少年の隣に座っている栗色の髪のローティと呼ばれていた少女を見た。年齢もそう変わらないと思うのだが。

「あぁ、邪魔なら私は消えよう」

「いえ、すみません。居て頂いても大丈夫です」

 腰を上げたローティを慌てて留め、内心で吐息する。あまり異性と二人きりになるのは慣れていない。事務的な場であれば気持ちを切り替えてどうとでもなるが、今は知らない人でも同姓が居てくれた方が心強い。

 こちらの言葉を待っていてくれているらしい、ローティが少年へ妙な目配せをしている。何なのだろうか。

「まあ出入り口を挟んで会話というのもなんだ、汚い場所だが中へ入ったらどうだね?」

 言って手招きし、適当に木箱を並べなおしてくれる。

 その間に少年はやや慌てた様子で服を着て、並べ終わったローティが手を取り導いてくれた。なんだか手馴れていて、そしてクゥナにも馴染みのある動作で、少しだけドキリとする。

 誘導されるまま座ると、自然と少年の対面となった。

 ローティは扉の脇に陣取っていて、出入りする人へ声は届きにくい。

「いや、というか……」

 少年が困惑した声を出す。

 対するクゥナも緊張して話を切り出せずにいた。

「俺に話って訳じゃないだろ?」

「いいや、ロイ、君に用があるんだよ」

 少年の名前はロイというらしい。

 ロイ、と心の中で何度か繰り返す。

「そうだろう?」

「え? は、はい!!」

「だそうだ」

「そうなのか?」

「はい……」

 そうだ、目的をきちんと果たさなくては。

 クゥナは意を決し、それでも少し周りを気にしながら、フードを外す。ロイとローティのおかげで比較的隠れる位置にいる。どこかで冷静に判断しつつ、傭兵の少年と視線を合わせた。

「まずは名乗るべきですね。私の名前は……クゥナと申します」

 やや乱れた呼吸を吐息でそっと整え、

「今日は、貴方を雇いたいと思って来ました」




   ※  ※  ※




 正直な所、ロイは言葉を聞き逃していた。

 何かを言った後にやや慌てた様子で クゥナという名を名乗っていたのだけは聞こえた。そうか、クゥナというのか、そんな事を考えた後、心の中で何度も繰り返す。ほんの一瞬だけ昔の知り合いを 思い出すが即座に消した。孤児院で散々おもちゃにされた記憶も一緒に消してしまいたいが、中々思い通りにはなりそうになかった。

 気を取り直して正面に座る少女を見る。

 フードを外して見えた素顔。一度見ていたけれど、あの時みたいに暗くはないし雨も無い。こうして落ち着いた場で改めて見た彼女は、ロイが言葉を忘れる程に美しかった。

 月の光を集めたような、とは我なが ら大した発想だ。まるで髪が自ら光りを放つように、とても洗練された美しい金髪。青空のように透き通った碧眼には、見ていると心洗われるような透明感があ る。顔立ちも世界中の人形師がこぞって作り上げたように整っていて、自分が対面しているのが人間である事を忘れてしまう。

 けれど、決して人形のように無機質ではない。

 自然と浮かび上がる表情には人としての感情があり、今もこうして目を泳がせながら頬を赤く、ん?

「見すぎだバカタレ」

 ガン、と後頭部を木箱で叩かれた。

「痛いぞ」

「足りんくらいだ」

 ゴン、と今度は額を角で叩かれた。

「流石に血が出る。止めろ」

「二秒以上彼女を凝視するな。分かったな?」

「それだと会話が」

「返事はハイかローティ様の奴隷となります、だ。いいな?」

「おかしくないか?」

「自分の頭がか?」

「鏡よく見てみろ」

 バン、と一応は側面で叩かれる。

「言われずとも朝から晩まで小まめに見ているさ。これでも身嗜みには気を使っているのでな。そういう事を淑女に平気で言えるお前の神経は叩いたくらいじゃ治らんか?」

「分かった。分かったから、木箱を置け。話はそれから……俺の頭上に置くとか止めろな? いいからその持ち上げた木箱をお前の右横に置くんだ、俺の頭部を経由しようとするな、そのまま回れ右だ、木箱を回してどうする、ああもういい俺が置く!!」

 楽しげにおちょくってくるローティから強引に木箱を奪い、ロイの脇に置く。

「つまらん奴だな」

「話が進まん」

「見とれていたくせによく言う」

「っ、のやろ……」

「あああのっ」

 握った拳をなんとか解き、クゥナの側へ向き直る。

 ローティのおかげで随分とみっともない姿を見せてしまった。わざとらしく咳払いをし、居住まいを正す。あぁ、そういえばなんと言われたのか記憶が飛んでしまった。

「……受けて頂けませんか?」

「はい!!」

 思わず返事をし、はて、と思考する。

 彼女に不安げな目で言われて、思わず断るという選択肢が頭の中から消えてしまった。隣でローティが嘲笑っているのが分かったが相手をすると先程の二の舞なので流す。

「良かった。助かりました」

「あ、ええと?」

「あぁ、報酬はきちんと用意してありますので安心して下さい。前払いの方が良ければ後で持ってきますが」

「ちょっと待った!!」

 話を進めようとする少女を慌てて止めて、ロイは考える。

 彼女の話からして内容はすぐに察した。様はロイを傭兵として雇おうとしているらしい。だが、それは出来ない。

「ごめん、勢いではいとは言ったけど、本当はまだ任を解かれていないから」

「……そう…ですか。町に着いたから終わったとばかり」

「少し雇い主と揉めてるらしくって。それに、俺なんかを雇うより受付で紹介してもらえればもっと腕の良いのが雇えるよ。それに仕事そのものを受けるかどうかはまず斡旋所が判断する。俺が勝手に決めて良い事じゃ――――痛ッ!」

「構わないだろう。隊長には話しておく」

 音も無く足を踏まれ声を上げる。

「ローティ! そんな勝手は出来ない!」

「どうせ君は怪我人で足手まといだ。初の実戦を終えたばかりでもあるし、隊長もお前が首を縦に振りさえすれば休ませただろうに」

「俺だけ休んでいられるか。皆だって落ち着いたらまた捜索に行くんだろ。荷物を集めるくらいは俺にだって出来る」

「彼も快く受けるそうだ。好きに使ってくれて構わない」

「人の話を聞け」

「そうだな、まずは彼女の依頼について確認するべきだ。分かっているじゃないか」

「おい」

「ロイ」

「なんだローティ」

 唐突に押し黙ったローティがじっとロイの目を見てくる。流石に苛立ちと敵意さえ込めて視線を返すが、彼女に動じる気配は無い。深い黒だ。フードの少女とはまた別に、そこへ吸い寄せられているような錯覚に陥る。

 しばらくそうして見詰め合った後、動いたのはローティだった。

「お前は無茶をし過ぎる」

 ため息を共に木箱へ座りなおし、両手の指を絡み合わせる。

 呼び方が、君からお前、へと変わっていた。いつものわざとらしい動作や口調は消えている。そして彼女はそれ以上を語ろうとはせず、しばらく目を瞑ったままだった。

 彼女の言いたいことは分かる。

 今回ロイは、出発前から後方援護だ けで構わないと言われていた。戦いが始まれば前線から引いてローティらの手伝いをしろと。けれどロイは引かなかった。出た怪我人をどうにかするのではな く、怪我人が出ることすら否定しようと、より直接的な手段を取った。挙句に仲間を犠牲にして、自分もこうして幾らかの傷を負った。

 ロイが素直に引いていれば、傭兵達は一部分をロイに任せることなく広い範囲ながらもしっかり守り、先輩も死ぬことは無かったかもしれない。けれど、そこにもしという仮定が介在できるように、ロイがああしなかった場合にももしが生まれる。

 この傷は、別の誰かが受けていたかもしれない。

 もしかしたら、もっとひどい傷になったかもしれない。

 そう思うと未熟な自分を棚上げしてても、黙っていたくはなかった。愚かだとは自覚している。救いようのない偽善者だとも。けれど世界中のすべてから否定されたとしても、目の前に誰かが傷付くのを黙ってみている気にはならなかった。

 そうして、いざ戦いとなれば必死になる。より救おうと、より良い結果をと、諦め切れない雁字搦めの中、もがいてもがいて、振り乱した手で自身も味方をも引き裂いてしまう。今回がそうなった。覆しようの無い事実だ。

 力が足りない。

 初めての実戦を経験して、ロイはそれを確信した。多くを望むだけの実力も、それを求めるに足る努力もまだまだ足りない。

 いや、こんなのは良い訳だ。

 ロイが拘っているのは、先輩を死なせてしまった事から来る、義務感を経由した罪悪感と、あの時崖下で見た女の事が気になっているからだ。

 まだこの一件から手を引く訳にはいかない。

 長い思考を経て、ロイは一つ吐息をついた。

 クゥナは何も言わず待っていてくれていた。

 ローティだけが諦めたような笑みを浮かべていて、一度口を開きかけたが、そのまま噤んでしまった。それにロイは自分が思った以上に落胆しているのに気付く。きっと、彼女には理解して欲しかったとか、そんな子供じみたことを考えていたのだと思う。

「無理にお願いはしません。護衛というより、手伝って貰うという点が大きいだけです」

 返事が分かっていて切っ掛けをくれた少女へ内心で礼を言い、ロイは、その申し出を丁重にお断りした。

「この頑固者」

 彼女が去っていった後、ローティがそう呟いたおかげで、少しだけ気持ちが楽になった。




   ※  ※  ※




 それからしばらく後、自己の判断で休息を取り止め鍛錬に費やしていたロイへ先輩数名からのお使い指令が出た。

 動けるのなら働けと至極全うなお言葉であったが、それならば捜索隊に加えてくれと言えば怪我人がうろちょろするなと言われてしまった。ひどく理不尽さを感じる。

 目付けに連れて行けと現れたローティを見た途端に彼女が手を回したのだと思ったが、はぐらかされ続けて事実関係は不明のままだ。

 一応引き受けはしたものの、剣を持ってきたのはなけなしの意地に他ならない。

 偉そうにクゥナの申し出を断っておいて、仲間からは用無し扱いを受けているじゃみっともなさ過ぎる。

 鞘から伸びるベルトで柄を固定し、一息では抜けないようにしておく。ベルトはホルノスから発行された正式な帯剣許可証の一つで、そうしておけば無意味に呼び止められる事は少なくなる。元はノンスイーストの政策を参考に施行されたものなので、これは二国共通のものだ。

 因みに少なくなる、というのはつまり幾らか呼び止められる事もあるということ。ロイくらいの年齢で許可証を持っているのは非常に稀らしい。ひどければ許可証を見せても盗んだと言われ、斡旋所に問い合わせるまで牢に入れられた事もある。

「無意味に触っているから、余計に疑われるのではないかな?」

「普段はしないよ。新しいのに変えたから重さとかしっくりこなくてつい触りたくなる」

「そこまで変わるものかね」

「馴染ませてた分、余計にな」

「ほう」

 ロイ本人への風当たりは面倒な所があるが、それだけ町それぞれにまで政策が行き渡っている証拠でもあるし、すなわち街中の治安が良いということになる。革命から随分と国内は荒れたが、ようやくここまで来た。

 今見えるノンスイーストの町は、昨日まで居たホルノスの町とそう変わらないように思える。

 かつての友好国、ノンスイースト。 革命を経て大陸での地位を失ったホルノスとは違い、高い造船技術を用いて作り上げられた海軍や、現代の女神と呼ばれる将軍が率いる”アモンハルトの騎士 団”という圧倒的な軍事力を背景に大陸南部平定を推し進める軍事国家。北方の強国カストロフィアとも同盟関係にあり、余程力に自信のある国でもなければま ず手は出してこない。

 ただ、その大陸有数の軍事同盟へホルノスが参加するという噂がある。

 争いを否定し、言葉によって和を結ぶ。そんな理念を掲げていた国が、軍事国家と友好国以上の関係を結ぼうとしているのだ。

 ロイにとってもそれは心穏やかではない。

 いや、それを否定したからこそ、前王権は滅んだ。御伽噺のような理想から目覚めた国が、より現実的な方法を取ろうとしているに過ぎない。噂程度の話でもあるし、実現するかどうかは怪しいものだ。

「ここがこの町の図書館か」

「ん?」

「思ったより大きいな」

 ローティの声につられて道の脇を見ると、たしかに町が所有するには十分な規模の図書館が見えた。門構えもしっかりしていて、こんな時間にも人の姿が見える。

「一応、交易の中継地だしな。寄っていくか?」

 竜鱗の女が呟いた言葉についてローティは何か覚えがあるようだった。

 ロイとしても早く分かった方がありがたいのだが。

「いいや、今は君を見張っていよう。一人で町を飛び出さないとも限らないしな」

 言って、腕を絡めてくる。

 突然の事にロイは動転し、思わず身を離す。が、それを予測していたようにローティが動いて笑い声を漏らす。女の子のやわらかい感触が右腕を包む。今日はやけに暑い気がした。

「どうした少年?」

「お前がどうしただよっ」

「勝手に飛び出さないよう怪我人を見張っている」

「なら腕はいいだろっ」

「奥手な奴め。先程の女の子もお前に随分気を許していたように見えたが、あれでがっついていかないというのは不能か同性愛者の疑いを持ってしまうな」

「どっちでもない!! 俺は女が好きだ!!」

「ほう……」

 まるで獲物を見つけた蛇のようにねっとりとした視線を受け、ロイは後ずさった。その動きにさえ完璧に合わせて彼女も動き、怪しく笑う。

「つまり女である私もその対象になるのかな?」

 ますます身を寄せてきて、彼女がよく付けている香水が漂ってきた。柑橘系の、澄んだ香り。

「おい、あんまり…ふざけるなって」

「やはりこの奥手っぷりは経験の無さが起因しているな」

「何が言いたい……」

 問うと、抵抗させる間も無く耳元へ口を寄せ、呟く。

「君には恩があると言ってるだろう。そうだな、一度くらいなら許してやらんでもないぞ? そうすれば臆する事も減るだろう」

 その言いぶりに頭がカッと熱くなって、やや強引にローティを引き離す。

「俺はお前にそんな事言わせるためにあの時助けたんじゃないッ」

「ならすべて放り投げて、至極個人的にそうして欲しいと言えば良い訳か」

「なっ!?」

 ぶつけた言葉があっという間に萎んでいく。

 継ぎの言葉が見つからず口を開けっ放しにしていると、突然ローティが笑い出した。口を大きく開けた、豪快というより快活な、ひまわりみたいな笑顔。

 余程面白かったのか、そしてそれを見て呆然とするロイを見て更にひとしきり笑い、目尻に浮かんだ涙を指で拭う。

「すまんすまん、おちょくりすぎた。まさかここまで予想通りの反応を返すとは思わなくてな。ついやりすぎた………おいおい待てっ、置いていこうとするなっ、謝るから待てっ」

 息を弾ませて隣に並ぶローティを講 義の眼で睨んでみたが、彼女は涼しげな笑顔で軽く流した。その表情がこの町に来てからよりずっと、力の抜けたものであるのは分かった。彼女もロイと同様 に、あの戦いに参加していたのだ。必死に処置をしても救えなかった者は、そしてその死を見取った数は、ロイの比ではないだろう。

 自発的に力みを取ってやることが出来ればよかったのだが、そういう事はどうも苦手だ。

「すまなかった。許せ」

 繰り返し謝ってくるのも、ふざけながらも彼女が気にしている証拠だろう。だからロイはやんわりと、しかし上手くいかずぶっきらぼうに、

「いいよ」

 そう答えた。




   ※  ※  ※




 街の外壁付近でそれは起こっていた。

 無残に引き千切られた、かつて人であったもの。家屋で三階にもなる外壁部の上から下まで、そして付近の建物へ、縦横無尽に血糊がぶちまけられていた。

 とても人に出来るとは思えない所業。

 集まった人だかりから逃げ出していく者が後を絶えない。あんなものを見れば、数日は食事が喉を通らなくなるだろう。

 しかしクゥナは、倒れそうになりながらも必死にその光景を目に焼き付けていた。

 どんな痕跡も見逃すまいと、傷跡一つ一つへ目をやっていく。

 局所的に嵐でも起きたかのような荒 れっぷりだ。明らかに剣ではない何かによって壁へ刻まれた傷跡。等間隔に並び、中心は長く、外は短い。そう、まるで鋭い爪に抉られたような。路肩で崩れて いる花壇は、ただの衝撃だけで壊されたものとは様子が違う。出鱈目に吹いた風が植木ごと引き千切ったような、無意味ともいえる破壊。

 予想していたものとは少し違う。

 あの少年がサルヴェルという言葉を聞いたと言っていたから、てっきりここには水でも溢れているのかと思っていたのだが。

 集まりだした警備兵らを見て、クゥナは離れていく人ごみに紛れるようにして歩き出した。

 最後に犠牲者となった人の顔を見、

「っ――――そんな」

 そこで凄絶な死を迎えていたのは、あの時傭兵の斡旋所ですれ違った、そして道中の護衛をしてくれていた傭兵達の、隊長だった。

 足の力が抜けて、地面へ座り込む。

 ここから離れなくてはならないのに、思考が止まってしまっている。

 目の焦点が合わなくなってきた。こ れは拙い、意識を失う兆候だ。早く立ち上がって、関係の無い人としてここから去らなければ。異国とはいえ公的な機関と係わり合いを持ちたくはない。身の危 険よりも、これからの行動に支障をきたす。それはすなわち、この街の住人達を危険に晒されてしまうのだから。

「君、大丈夫かい?」

 知らぬ男の声。身なりからしてこの街の警備兵だろう。物腰が柔らかな、退役していておかしくないようなご老体だった。

 クゥナの反応に何かを感じたらしい老兵は、近くの者へ何か指示を飛ばし、再度隣に膝をつく。

「この方は君の知り合いかな?」

「ぁ………、っ……」

 違うと言えばいい。

 ただこの惨状を見て腰を抜かしただけの小娘だと答えれば、きっと開放されるだろう。けれど、と再び隊長の姿を見る。彼は武器を持っておらず、服装も街中に合わせて防具すらない。彼が今日この街に入った傭兵だと知れるだけの材料が無い。

 そして何よりも、彼の表情。

 痛みに苦しむでもなく、恐怖に怯えるでもなく、果敢に立ち向かおうとしている者の顔だ。

 武器も無く、防具も無く、異国でしかないこの街で。彼は何かを守る為に戦ったのだろう。その姿に、崖下へ消えていった名も知らない忠臣の姿が重なる。彼ももしかしたらホルノスに仕え、大天使セイラムの理念を掲げていた戦士かもしれない。

「……はい、私がお世話になった方です」

 思えば自然と言葉が出ていた。

 彼をこのまま放置することは出来ない。少しでも早くその死を傭兵達へ知らせ、立派に弔うべき人物だ。

 そして道の片隅、彼が守った背後に、見覚えのある布片が落ちているのに気付いた。

 彼同様に、斡旋所ですれ違ったあの陰気な三人組の身に着けていた外套と同じ色。そして恐らくはそれを率いていた彼も、ここに居たのだろうと思う。

 悔やんでも悔やみきれない。

 あの少年の話からして、彼女はクゥナのすぐ後ろに居たのだ。

 気付けず、挙句にこのような犠牲を許した。

 警備兵に連れられて歩く最中、クゥナは両手を組んで言葉を紡ぐ。誰にも聞こえぬよう、遥か天上の存在へ向けて。

「罰ならばこの身に受けます。これ以上誰かを傷付けないで……」

 返事はいつまで待っても来なかった。




   ※  ※  ※




 ようやく捕らえたか、と誰かが漏らした。

 口数の少ない彼らにしては珍しい、思わずといった風に漏れた言葉だ。

 彼が参加したのはコレが初めてなので今までの苦労は生憎と分かりかねるが、聞く所によると対象を既に一年近く追い続けていたらしい。

「で、この後は任せていいのか?」

 男、ヴィート=クロイツェフが口を 開くと暗い緑色の外套を纏う二人が小さく身を揺らした。足元には人らしからぬ容姿の女が血に濡れて倒れており、動く気配は無い。今朝になって町へやって来 たどこぞの有力者から受けた依頼だったが、この程度を相手に一年も掛かったとなれば手駒も頭も大した者ではなかったらしい。

「おい、何とか言え」

 やや威圧の効いた声に二人が怯えたような様子で一歩下がった。

 意図してではないだろう。より動物的な本能から下がらざるを得なかった。

 ヴィートは、ただの傭兵ではない。カストロフィアの戦士であると伝えてある。巨大な飛竜を単独で迎え撃ち、打倒するという戦うべくして生まれてきたような民族の男。その実力の一端を彼らは見ている。

 腕の良かったらしい傭兵やそれなりに実力を認められていた護衛がまったく相手にならなかった女を、たった今、一人であっさりと斬り捨てて見せたのだ。

 ヴィートは二人の様子に満足するように、あるいは落胆するように一息ついた。

「後の流れはお前らの雇い主に伝えてある。お前らはそれを忠実に実行するだけ――――」

 言葉を切り、視線を外へ向けた。

 つられて顔を動かした男の一人が叫ぶ。

「そこで何をしている!」

 見知らぬ少年がそこに居た。

 黒髪の、明らかに一般人とは異なる体格をした少年だ。

「ほう……」

 口の端が吊り上がるのをヴィートは感じる。

 勘だ。長年戦い続けてきた戦士としての勘が、その少年に微かな期待を向けている。もしかすると奴は、己を殺し得る人間かもしれない、そんなことを思った。

「やれ」

 気付いたときには指示を出していた。

 本来従う道理の無い関係にも関わらず、二人は動いた。

 獣のように、鋭い牙を剝いて。

「まずはコイツを生き残ってみな」

 笑みは次第に濃く、醜悪に変化していった。






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