風が泣き声を上げて打ちつけ、少女の身体が馬車と共に傾いだ。

 窓硝子には拳で殴られているような激しい雨音がひたすらに続き、今となっては聴覚が麻痺してしまっている。時折共に山道を行くキャラバンの護衛らしき人たちが怒声をあげて行き交うと、その度に少女の身は固くなって縮こまる。

 馬車の中に居るのは彼女だけだ。

 だが少女は怯えるようにフードを目深く被り、外套の裾までしっかり抱き込んでいた。

 山岳地帯特有の寒さはあるが、この雨の中を護衛達が平気で行動出来るくらいの気温はある。そうでもなければ、この嵐の中で危険な山越えなど誰もやろうとは思わなかっただろう。

 運良く混ぜてもらえただけに馬車といっても簡素なものだが、外を見れば雨風が凌げるだけで十分過ぎる待遇と言える。傍らに積み上げられた名前も知らない商品の数々を律儀に支え、馬車へ乗り込んでからずっと握り締めている手紙へ目を落とす。

「お母さん………」

 呟くと、胸の奥底から刃で貫かれたような痛みが走った。

 その傷口から流れ出した血が塊と なって体の底へ沈殿していく。重く、粘ついた感情。どれだけ否定しても、どれだけ払い落としても、一向に消えてくれない黒い心だ。あの日、少女はすべてを 失い、すべてから追い立てられた。当然だったと納得したくても、失った悲しみはいつまでも彼女を追い立てる。

「っ――――ぁ、っ!!」

 ハッとして口元を抑えると、湖のように深く澄んだ碧眼から涙がこぼれた。

 あれからもう何年も経ったというのに、ほんの小さな切っ掛けで心が悲しみに取り付かれる。この煩さなら誰にも聞かれないのだからという甘えと、どんな時でもしっかりしていなくてはという理性が鬩ぎ合い、泣くに泣けず、中途半端な痛みだけが延々と心を刺す。

 うまく泣けなくなったのはいつからだろうか。

 力一杯泣くなんて事はずっと昔に忘れてしまった。

 そんな権利などないのだと思う。あ の革命で大勢の人が死んだ。それ以前にだって沢山死んでいて、自分は何も知らず無邪気に笑っていた。死んだ人間はもう笑えない、泣けない、大好きな人の腕 で安らぐ事さえ出来ない。そうさせてしまった、その中心に居た人間が果たして泣く権利などあるだろうか。笑う権利などあるだろうか。

 許されないだろうし、許されてもいけない。

 それでも、涙が止まらなかった。

 どうにか押し留めようとして、だからこそ痛みは増していく。

「山賊だーーー!!」

 叫びが、雨音の合間を縫って放たれた。

 不穏な空気が一瞬でキャラバンを包み、僅かな静寂が訪れる。

 次に聞こえたのは、どちらかの悲鳴だった。




   ※  ※  ※




 少年、ロイにとって、それが最初の実戦だった。

 物心ついた時から孤児院におり、そ こで幾らか剣の指導は受けた。だがその指導者が退院した後はほぼ独学で、正直自分が強いのか弱いのかという判断はつかない。ただ、新たに国が定めた帯剣許 可証を得る為に試験を受け、そこで斡旋所の人に見初められて何度もキャラバンの護衛を務めてきた。

 けれど結局戦う機会など一度も無く、今こうして、初の戦場に武器を持って立っている。

「すー………はー……」

 訓練通り、まずは呼吸を整える。

 緊張はあったが身体が硬くなる程ではない。むしろ丁度良い。雨除けに被っていたフードを払い除け、周囲を観察。護衛対象は荷馬車四つに人を乗せた馬車二つ。

 それぞれ手綱を握っている御者は戦いの素人だ。

 護衛の傭兵を束ねる隊長は一度馬車を止めさせたが、すぐに動き出すよう指示を出した。

 ここは視界が悪く、左右から狙われる危険があるからだろう。少し行けば片側が崖になる道へ出る。向こうも馬車を崖下に落としたくはないだろうから無茶な攻撃も減るだろうし、相手の襲ってくる方向が限定しやすい。用心にと二人が先駆けとして馬に乗って消えていった。

 隊長は何度か組んだ事のある人だったが、やはり優秀だ。

 頼もしさを感じながらロイは剣の柄を握りこむ。

 指示は絶え間無く放たれている。ロイへ何も言ってこないのは彼が実戦経験の無いひよっこだと思われているからだろう。事実そうであるし、この扱いは予想していた。

 だから先頭を行く依頼主の馬車や後方にある荷馬車ではなく、駆け込みでこのキャラバンに参加しただけの、現地へ向かうだけの人が乗る馬車の護衛に付けられているのだ。

 この騒ぎでもその人は中で大人しくしてくれている。

 襲撃沙汰になるとよく慌てて馬車から逃げ出して勝手な行動を取る人が居ると聞いていたがこれならば随分楽だ。実際護衛が居る以上は戦場を逃げ回られるより中に居てくれた方が守りやすいのだから。

 襲われているのは後方らしく、遠くから戦いの音が聞こえてくる。

 雨に血の臭いが混じりだした。おそらく、幾らかは仲間のものだろう。いかに護衛の者達が強いといっても、戦いで人が死なないなどという事はありえない。

 冷静にそれを受け止めようとして、ロイは胸の奥から湧き上がる悔しさを感じた。

「考えていたようには思えないよな」

 戦いから離れた場所に居続けるのがこれほどまでに苦しいとは思わなかった。今すぐにでも駆けていって、戦っている仲間に加勢したいと思ってしまう。それをどうにか押し留め、しかし、気持ちの捌け口を求めるように周囲へ目を巡らせる。

 隊列は未だ左右を森に囲まれた道に居る。

 どこから山賊が襲ってくるか分からない。後ろに居るのが全てだという証拠はどこにもないのだ。守りの陣形を崩さないように速度を出していないのが逆にもどかしい。

 そして前方の、一際深い茂みの向こうに、人影を見た。

「前方右舷!! 盛り上がった茂みの向こう!!」

 ロイの叫びから数秒、小鳥が悲鳴を上げたような音が頭上を駆けてロイの示した場所へ吸い込まれていった。馬車の上部で監視をしていた者が矢を放ったのだろう。そして、その矢が人影の額を貫き、倒れる様をロイは確かに見届けた。

 己が見つけ、指示したも同然の結果。

 自分の手によるものではないにしろ、ロイが言わなければ死ななかった命だ。

 背筋が凍りそうになるのを無理矢理な憤怒で溶かし、一度馬車へ目をやった。

「守るんだ」

 そこに居る名も知らぬ人。

 襲撃を聞いて怯えているのか、縮こまっているのが見えた。

「アンタは絶対に、俺が守るッ」

 聞こえていないと分かっていて、それでもロイは強く言い放った。そうせねば弱い自分が顔を出し、今にも逃げ出してしまいそうで、そして、それが何よりも嫌で、

「掛かって来い山賊共!!」

 咆哮した。




   ※  ※  ※




 「アンタは絶対に、俺が守るッ」

 少年の声を、少女は確かに聞いた。

 激しい雨音も、馬車を揺らす風も、遠く聞こえる戦いの喧騒も、その瞬間だけは消え失せたかのように感じた。硝子越しに見た少年の表情はどこか辛そうで、それでも自分の弱さを精一杯否定しようと叫んでいた。

 別に、少女だから守ると言ったのではない。

 けれど少年の言葉は、少女の心に響いた。

 守るなどと言われたのはいつ振りだろうか。

 気付けば涙は止まり、少年の姿に釘付けとなっていた。さして年齢の違わない男の子。確かに体格はしっかりしていて同年代からして身長も高い部類だろう。けれどやはり顔つきにはあどけなさが残っている。

「あ!!」

 少年へ迫る山賊を見て少女は思わず声をあげた。

 けれど少年は振り下ろされた剣を横へ弾き、その切っ先を山賊の顔面向けて突き出し、途中で止めた。当然驚いた山賊は後ろへ下がり、しかしそれを予測していたかのように少年が置き去りとなった山賊の腕を斬る。落とした剣を踏みつけ、切っ先を向けながら何かを叫んだ。

 おそらくは、降伏しろ、とでも言ったのだろう。

 斬られた腕を押さえながら山賊はジリジリと後退し、茂みの中へ飛び込んでいく。少年は敢えて追うことはしなかった。

 一部始終を呼吸も忘れて凝視していた少女は、少年がこちらへ向こうとしているのに気付き、慌ててフードで顔を隠す。

 背中に視線を感じながら、ほっと息をつく。

 あの少年が人を殺さずに済んで良かったと思う。

 彼のように優しい人が人殺しの苦しみなんて背負う必要はない。それが自分ごときを守る為なら尚の事。

「彼をお守り下さい」

 両手を強く握り、額に合わせる。

 こんな自分に、神様が応えてくれるかは分からない。けれど、例え自分の恥知らずを罰せられてもあの少年に死んで欲しくなかった。

「どうか……」

 祈りよ届け。

「この身はどうなっても構いません」

 必死の懺悔は、雷鳴に掻き消えた。

 少女にはそれが慈悲深い神様からの返答のように思えた。

 許しなど得てはいけないと首を振り、少年を見る。

 最後に、

「頑張って」

 ただ一人の女の子として、想いを口にした。




   ※  ※  ※




 襲撃は思った以上に長く続いていた。

 実際はものの数分しか経っていないのかもしれないが、ロイにとっては半日以上戦い続けているような疲労がある。

「おおおおお!!」

 剣を構えて突っ込んできた賊へ一度守りに入ろうと刃を倒す、が、ロイは直感を頼りに距離を取った。それへ追い縋ろうとする賊の肩へ矢が突き刺さり、すかさず間合いを詰めて剣を叩き落す。

 返す刃で止めをと訓練で培った動きを身体がなぞる。

 しかし、ロイは咄嗟に動きを緩め、その隙に賊が逃げ出してしまった。

 少し遅れてその背中に矢が放たれておそらくは絶命。仲間の激が飛ぶ。

「躊躇うなロイ! お前が死ぬぞ!」

 分かっている。

 今掛かっているのは自分だけでなく、仲間や依頼主の命もだ。躊躇いや甘えは許されない。こうしてロイが弓兵の援護を受けている間に、本当に援護が必要だった誰かが傷付いたかもしれない。それでも、捨てられない、捨てたくない理念があった。

 革命以前にホルノスで掲げられていた理想論。

 言葉を以って和を結ぶ、平和的な解決法。

 かつて二大国の争いを治め、大陸の中央にホルノスという国を作り上げた大天使セイラムが掲げた理念を、ロイは捨てきれずに居た。

 甘いというのは痛いほど分かっている。

 それをロイはあの革命で、自分なりに体感した。

 その上でしかしと心が叫ぶ。

「ロイ! 集中しろ!」

 叫びに顔を上げれば、横合いから斬 りかかって来る男の姿が見えた。幅広の長剣を上段に掲げ、絶好の間合いで打ち下ろしてくる。重量のある攻撃だけにロイの剣では受けきれない。防具はつけて いるが正面から受ければ木製の篭手くらい軽く粉砕されそうだった。右からの接近で、左手に持った盾では間に合わない。そもそも、気を抜いて緩んでいた筋肉 では剣による防御が間に合うかすら危うかった。

 激しい雨が顔を打ちつける。気を抜けば眼球に当たった雨粒で目を閉じてしまいそうになる。風が一層強くなって、後ろで援護してくれていた弓兵の声が掻き消えた。

 その中で――――ジャリ、と賊が地面を踏みつける音を確かに聞いた。

「っ――――おおおおおおおおおおおおおお!!」

 叩き付けられる長剣に対し斜めに剣を構え、打ち合わせる。胸を逸らし、腰を捩り、膝を曲げ、足を滑らせ、ほぼ全身の間接を用いた動きで防御を間に合わせた。視界が一度大きくブレて、次により鮮明となって甦る。

 手首から嫌な感触が伝わってきた。こちらの意図に気付いた賊が下へ向かう力をこちらの剣へ垂直となるよう調整する。刹那の動作、相当な負荷を得るだろう動きを相手はやってみせた。

 このまま鍔迫り合いとなれば元から押される形を取っているロイが不利だ。

 故にロイはこの状況から更に一歩踏み出し、自身が斬りつけられる危険さえ度外視して剣を振り切った。

「ちぃっ!!」

 覚悟が足りなかったのは相手の方だった。

 相打ち覚悟の危険な手は、賊の回避によって両者が無傷に終わる。だが、臆した者と踏み出した者、気勢で言えばロイが優位となる。

 賊からすればロイの行動は危険だ。

 今の行動だけで、不用意な攻撃をすれば命懸けで斬りつけてくるのだと警告になっただろう。だから攻め手が緩む。加えて、相手は扱いの難しい長剣だ。一対一の状況ともなれば攻撃をする危険度は跳ね上がるだろう。

 そこでふと、ロイは左手の盾を横合いに構えた。

 小気味良い音と共に衝撃が腕を伝わる。見れば、木製の盾を貫通して鏃がこちらへ顔を出していた。盾を構えていなければ顔面に突き刺さっていた位置関係だ。

 背筋が寒くなるのを必死に抑えて声を張る。

「奥の茂みに!」

「分かっている!」

 次の矢が向けられたのは馬車上。

 先と似たような音がしたのは、馬車 の側面に矢が刺さったせいか。ロイは敢えて正面で距離を取っていた賊へ踏み込み、互いの剣が届かない位置を取りながら打ち合わせる。元々の間合いが違うだ けに危険ではあったが、他に弓で狙われていた場合、敵の近くに居れば同士討ちを恐れて射掛けては来ない。

 三射目は起きなかった。

 相手が次を番えるより早く居場所を察知した味方が始末したのだろう。

 味方の援護を前提に動いていたらしい賊の動きに迷いが出る。攻めようという気概が薄れていくのが打ち合わせる度ロイには分かった。それと同時に、ロイの中にある迷いが表に出始める。相手にもそれは伝わったのだろう、僅か、視線が交わる。

 ここで無理をしてロイを討つ理由が彼には無い。

 ロイも、出来るならば殺したくは無い。

 次第に護衛の馬車から離れ茂みの方へ誘導していき、大きく離れる。

 賊は何を言うでもなく背中を見せると一目散に逃げ出した。

「ふぅ………」

 知らず、ため息をついていた。

 交戦を終えた安堵、殺さずに済んだという満足感。甘いと言われようと、可能な限りそうしていたい。それが叶った瞬間だからこそそう思えたのだろう。

 そして、己が愚かしさに気付くのは、常に後の事。

 違和感を覚えたのは、頼れる先輩からの激が無かったからだ。忙しいというのは確かだろうが、ロイが離れていくのも、その理由も彼なら分かっていたと思う。だから終わった後に叱られる事も覚悟はしていたのだが。

「っ!?」

 嫌な予感がして、茂みの奥から弓で狙われている可能性さえ無視して馬車を振り返った。

 激しい雨音を裂いて聞こえる少女の 悲鳴。馬車上で弓を構えていた先輩が、馬車の側面に力無くぶら下がっていた。激しい揺れの中でも姿勢を安定できるようにと体に巻いていた縄が引っかかって いるいるのだろう。だらりと両手を地面で摺らせてる様は生きているのか死んでいるのか咄嗟に判断がつかない。

 ロイが飛び出した事で生まれた穴へ、数名の賊が入り込んでいた。

 やけにはっきりと、茂みで矢を番える音が聞こえる。

「先輩!!」

 構わず駆けた。

 背後から放たれた矢を掴んで叩きつけ、剣で弾き、わき腹に走った熱が脳を沸騰させた。ロイに気付いた一人が立ちはだかり、剣を横薙ぎにしてくる。

「邪魔すんじゃねええ!!」

 正面から打ち合うのではなく、相手 が振るった方向と同じ方向へ後ろから叩きつけた。結果軌道は大きく変わり、馬車へ向かって一直線に走るロイは互いが触れ合うまでに踏み込んで頭突きをお見 舞いする。怯む体を横へ押しのけ、その後ろで待ち構えていた男へ力一杯剣を叩きつける。

 相手は鉄製の篭手を付けていた。

 だから、そこで一撃を受けて返しで仕留めようと思っていたのだろう。

「オオオオオオオオオ!!!!」

 鉄のプレートが大きく歪む。恐らく、その内部も。

「がああああ!」

 歪んだ剣の柄尻で後頭部へ一撃を入れると悲鳴も収まり、ついでに剣も拝借した。戦い続けていたロイのとは違って、まだまだ使えそうだ。

 改めて馬車へ視線をやると、中に居たらしい人がどうにか縄を外そうと奮闘しているのが見えた。その背後から迫る残りの賊二人も。

 盾を連中に投げつけた。上手く一人の頭部に当たって崩れ落ちる。

 最後の一人は慌てて人質を取ろうと考えたのだろうが、動きがあまりに遅い。少なくともロイの目には、挙動一つ一つが止まって見えた。

 背中から掴みかかって足を払うと、強引に反対側の地面へ叩きつける。

「っ……ァアア!!」

 泥水が盛大に撥ね、頬を汚す。

 腕が悲鳴を上げていた。無茶な力の使い方をしたせいだろう。けれどロイはすぐさま撥ねるように振り返ると、馬車へ体当たりするように縄を掴み、剣を何度も叩きつけて無理矢理に引き千切った。

 開けっ放しになっていた馬車へ押し込み、傍らでおろおろとしていた人へ向かって叫ぶ。

「この人を頼む!!」

 具体的な事な何一つ考えられなかった。

 相手の顔は見えず、医学知識があるのかも不明。けれど、今のロイが戦線を離れる訳にもいかないのは背中で感じていた。

「馬車を守れ!」

「矢が足りねんだ、誰か持って来い!!」

「いいから構えろ! 相手は待っちゃくれねえぞ!」

「なんで止まってる!」

「前を抑えられてるんだよ!」

 主戦場がいつの間にか馬車隊の前部に移動していた。

 後方を片付けたらしい仲間が戻ってくる。

 頼もしさと同時に、落ち着ける一時が悔しさを覚える時間となった。

 先輩の安否がどうであれ、彼がああなったのはロイの責任だ。青臭い考えを捨てきれずに愚かな行動を取った。しかもその報いを自身ではなく、味方に押し付けて。

「ちくしょう………」

 滾った脳が麻痺していくのを感じた。

 理性もなにもかもが吹き飛びそうだ。

 こうなった以上は、もう躊躇いはしない。一人でも多くの賊を殺す。例えこの身が切り裂かれ、命を落とすことになろうと構わない。それが先輩へのせめてもの償いだと心の底から信じようとして、

「死んじゃだめだよ!!」

 その声に、思考のすべてを奪われた。

「ちゃんと生き残って!! この人も絶対に助けるから!! 死んでもいいなんて思わないでッ!!!」

 女の子が大粒の涙を流しながら叫んでいる。

 月の光りを集めたような金髪に青空の如き碧眼。人形のように整った顔立ちの、目を奪われる程の美貌を持つ女の子が顔を涙でぐちゃぐちゃにして声を叩きつけてきた。

「お願い……生きるのを、諦めないで」

 それだけ言うと、彼女は座席に寝かせた先輩の防具を外し始める。

「まだ生きてるのか」

「脈はある。呼吸もしてる。体が冷え切ってるけど、ちゃんと治療すれば助かる筈」

 服を裂く手が震えていた。しっかりとした口調で答えてくれているが、経験があるようには思えなかった。けれど、少女は諦めていない。

 流れ落ちる涙を乱暴に拭って、外套の内側から箱を取り出す。

 医療道具とは違う、おそらくは裁縫に使うようなものだ。

「私も頑張るから」

「……分かった。その人を頼む!!」

 勇気を貰ったような気がした。

 濡れ鼠で冷たくなった身体に、先程とは違った熱が通う。

「この馬車は俺が守る」

 戦う意志は固まった。




   ※  ※  ※




 気が遠くなりそうになるのを必死に抑え付け、少女は処置を続ける。

 こういう時の知識だけなら幾らか持っている。昔、よく怪我をする人が居たから。それを見ていられなくて、けれど止めきれず、せめてもと身に付けた知識だ。使う機会は失われてしまったけれど。

 血は辛い記憶を呼び起こす。

 あの日、ホルノスの城で、沢山の血を見た。

 自ら流した血の感触は今でも鮮明に思い出せる。

 喪失したすべても、今は手の届かない所へ行ってしまった。

 けれど今ここに居るこの人はまだ間に合う筈だ。自分を守る為に戦ってくれていた人。理由や経緯がどうであれ、自分などの為に死なせていい人ではない。

 あの少年もそうだ。

 彼が背を向けて立っている姿を見て、ふと過去見たそれと重なった。

 死に場所を求めているような、すべてを諦めた背中だ。

 そう確信した時には叫んでいた。

 愚かな叫びだったかもしれない。けれど言った事に後悔はない。あのまま行かせてしまえば、きっと彼は深く傷付いた。死ぬにせよ、生き残るにせよ。少女の言葉がそれを癒したとは思わないが、彼が一人で背負い込もうとしたものを少しでも支える事は出来たと思うし、思いたい。

「彼をお守り下さい」

 罪ならば己にある。

「皆をお守り下さい」

 罰ならばこの身に受けよう。

「どうか、今一度救いをッ」

 矢を摘出し、縫合を終えた。

 頭の中で何度も工程を繰り返し、間違いは無かったことを確認する。何度繰り返しても不安は消えない。消毒は正しかったのか、鏃は本当に毒が塗られていなかったのか、このまま安静にさせたとして本当に助かるのか。

 気付けば、窓を打つ雨音が止んでいた。

 雲間から光りが差す。

 戦いの音がしない。

 外を確認すると、あの少年がふらつきながらも立っているのが見えた。

 誰とも無く腕を掲げ、




「勝ったぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」




 雄叫びを上げた。

 神が祝福を与えたように、掲げた剣が煌々と光りを放つ。輝きは純白にも金色にも見え、冷えた体を暖かく包んでくれている。これが彼女からの本当の救いなのかどうか、少女には分からなかった。けれど、今見えるこの光りは、きっと皆を称えてくれている。

 そう思いたかった。

 目を瞑り、吐息をつくと一気に力が抜けてしまった。

 差し込む光に目を細め、

「良かった……」




 直後、ゴン、と重い衝撃が馬車を揺らした。




 逃げようも無い浮遊感が少女を襲う。




   ※  ※  ※




 その日何度目の後悔となったのか。

 街道側面からいきなり転がってきた岩石に反応出来た者は居なかった。それが山賊の負け惜しみだったのか、自然と発生したものかは分からない。けれど、岩石は二列目の馬車と三列目の荷馬車を叩き飛ばして反対の斜面へ飛び込んだ。

 遅れること数秒、ロイは飛びつくように馬車の浮いた車輪を掴み、地面を力一杯踏みつけた。

「っ、がっ……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 掴んだ右腕の腱が千切れたような感覚が襲う。

 指の関節、手首、肘から激しい電流が流れて冷めかけた脳を再び沸騰させる。視界が一度白い光に包まれたのをどこかで冷静に見つめながら、すかさず御者台を掴んで全体重を後ろへ傾けた。

 頭が焼けそうに熱い。

 しかしソレも、窓越しにあの女の子の顔が見えて消え失せた。

 感覚が喪失していく。全身から一切の熱が引いて、車輪を掴む腕の痛みも地面を踏み付ける衝撃も、そこに立っているという感覚さえどこか遠くの事のように思えた。

 まるで、人形劇で人形を操っているような感覚。

 この刹那が数時間にさえ思えた。

 だからこそやれる。

 今この場で己を自在に操れるのなら、この落下しようとする馬車を止めることが出来る筈だ。

 腕が千切れても、足が壊れても、全てを投じてでも彼女を助けてみせる。

 生きてと言った少女に反するつもりはない。

 互いに生き残る為に、全力を尽くすだけだ。

「落とさせるかよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 ロイという人間の、魂からの叫びが天を衝く。

 そして――――、




   ※  ※  ※




 咄嗟に傭兵の体を支えていた少女へ崩れた荷物が降りかかる。

 不気味な浮遊感の後、訪れたのは静止だった。

「(止まった……?)」

 思った途端、馬車が大きくズリ落ち悲鳴を上げてしまう。

 混乱した頭をどうにか落ち着けて外を見る。

 馬車は街道から大きくはみ出し、急な傾斜との境目でかろうじて止まっていた。それがあの少年による功績だというのは馬車前方を見てすぐ分かった。そしてこの状態が長く続かないだろうということも。

「行こう」

 思い立ったが即行動。

 扉を開き、外の様子を伺って寒気がした。

 ただの傾斜だと思っていたが、これはほぼ崖に近い。乗っている馬車自体が斜めになっていたせいかここまでとは思っても居なかった。

「早くこっちへ!!」

 限界まで力を振り絞っているのだろう少年の声は潰れている。

 その後ろから数人の仲間が駆け寄り馬車を掴む。繋がれたままの馬にも引かせ、遅れてきた一人が縄の片方を持って投げ寄越した。

「それを体に巻いてこちらへ跳べ!!」

「怪我をしている人が居るんです!! 先にその人を!!」

「っ、分かった!! 出来るだけ急げ!! おーい誰か手の空いてる奴は集まれ!!」

 呼び声を後ろに聞きながら、少女は素早く行動に移った。

 急がないと。そう心の中で繰り返し、傷口に障らないよう男に縄を巻いていく。力一杯結び目を締めた後、扉から声を掛けようとして馬車が大きく傾いだ。大雨で地面がぬかるんでいるのだ、これだけの負荷を掛ければ一気に崩れてもおかしくない。

 まともに立ってもいられない馬車の中、少女は扉から顔を出して声を張った。

「結べました!!」

「もう持たない!! 君も一緒に掴まって跳ぶんだ!!」

 言われ、僅かに悩む。

 普通に吊り下げる事でさえ彼には物凄い負荷を掛ける。その上少女がそこに掴まれば、より無理をさせることになるだろう。そうならないよう手前を掴んでいたとしても、縄の先端には彼がおり、下手をすれば斜面へ叩き付けられてしまう。

「急げ!! 悩んでいる暇はない!!」

 決断出来ずにいると、不意に体が誰かに持ち上げられた。

「そうだな、急がないと・・・・」

 今まで気を失っていた筈の傭兵だ。

安堵すると同時、彼の顔を見て少女は真っ青になった。見えている皮膚上に紫色の斑点がある。具体的にどういった症状かは分からないが、毒の影響だというのは間違いなかった。

 確認はした。摘出した鏃も、傷口も、一応の血抜きも行った。

 けれど初戦は素人作業。見抜けるだけの観察眼も、それを養う経験も決定的に不足していた。

「ぁ……ごめ、ごめんなさい……私…」

「いい腕だった。何より、君に治療されていて安心できた」

「私、気付けなくて…大丈夫って……勝手に思い込んで」

「君の治療があったからこそ、俺は今この時間を手に入れたんだ。感謝している」

 こんな状況にあって落ち着き切った声が緩やかに耳朶を打つ。

「最後に一つ、独り言を聞いて欲しい」

「っ……………はい!!」

「俺は昔、これでもホルノスの近衛騎士団に居たんだ。主には城内警備の退屈な日々だったが、城の中をある女の子が無邪気に走り回るのを見るのは好きだった。その子がそれだけ周りを気にせず笑っていられるのは、俺達が平和を守っている証拠のように思えたからだ」

 毒はもう末期にまで達しているのか、辛そうに息を吐き、吸う。

 言葉を伝える為に。

「それから随分経って、革命で国が滅 び、それから……それからその子にまるきりそっくりな女の子を見た。いつも笑顔だったその子はすっかり笑顔を無くし、顔を隠し、過酷な人生を送っているよ うに思えた。そいつは、俺達が守れなかったせいだ。……勘違いかもしれない、でも、もし勘違いじゃなかったとしたら……あの日守れなかった笑顔を、もう一 度取り戻せるんじゃないかって思ったんだ」

 胸が詰まった。

 嗚咽が栓となって上手く言葉が出ない。

 伝えなければいけないのに。

 ちゃんと、あなた達は十分に私を守ってくれたよと。

「なあ、笑ってくれないか」

 涙が止まらず、みっともなく嗚咽が溢れ、今にも崩れ落ちそうになりながら、それでも少女は満面の笑みを浮かべた。

 すんなりと声が出る。

「ありがとう。アナタのおかげで私は頑張れる」

「そう……か。っはは、良かった。生 きて、おられたのですね。最後にお会い出来、そしてこのような機会が得られ、私は本望です。何故今アナタがこのような場に居るのか、何をしようとしている のか、そしてそれをお手伝い出来ぬ事が心残りではありますが、これでお暇を頂きます」

「お名前を聞かせて下さい」

「名乗る程の者ではございません。……それではお達者で。シルメリア=ルド=アークカイプ姫」

 馬車が崩れ落ちる。

 その中で少女は男の力強い腕から放り投げられ、驚くほどあっさり街道へ到達した。最後の瞬間まで離すまいとしていたあの少年が無理矢理引き剥がされているのが見えた。

 そして落下する馬車の中。

 名も知らぬ忠臣が穏やかに死んでいくのを、少女は最後まで見届けた。





























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