――――いつか、オヤジと夜空を見上げたことがある。 「あっはっはっはっは!!」 笑い事じゃなかった。 「いやあ参った参った!!」 まるで参っていそうにない笑い声を聞き流しながら、翔は地図を片手に地面へ座る。随分歩き回った後なので腰を落ろした途端一気に疲れが押し寄せてきた。このまま動きたくなくなる前にと背負っていた登山リュックを降ろす。 記憶の欠片を辿って山に入り優に8時間。 山道からも離れてしまっている上かなり奥まで迷い込んでしまったらしく、周辺に目印となりそうなものは存在しない。 片方は義足な癖によくここまで動けるものだと感心する。 「なんだよ浮かない顔して。大丈夫だって、明日になったら道も見つかるさ」 「俺としてはオヤジがなんでそんなに元気なのかを問い質したい」 「星に導かれてな」 「答えになってねえよ」 「北斗七星の近くにあるアルコルという星でな」 「それ見えちゃ拙い星だよねッ。導かれてるって確実にあの世的な場所だよねッ」 「アルコルは学名だ。問題ない」 「そういう問題じゃないよね!」 「死なば諸共だ」 「俺まで巻き込むなああああ!!!」 肉体年齢はとうに二十代後半だというのに、心は完全に子供のまま。それにはとある事件からずっと意識不明状態が続いていたという無理からぬ理由があるのだが、だとしても彼の行動には突飛なものが多すぎる。 今迷っているのだって翼のせいだ。 幸いにもこういうことが非常に多い為、常に登山リュックへ十分な野営道具や食料を持ち歩いている。なのでこうして野宿するのはさして問題にならないのだが。 「コンパスどこに落としたんだろ」 「過去は振り返らない」 「顧みろ。そのせいで方角も分からないまま迷ってるんだからな」 膝上に頬杖をつき、片手で荷物を漁る。出し易い場所に入れてある水筒から水分を補給して一息付いた。 山奥といっても地図によると近くに道路が走っている場所だ。下手に山の上を行くより、谷間を移動した方が案外楽かもしれない。川を探すというのも一つの手だが、一応は翼の身体のこともあった。 「体調、大丈夫なのかよ」 「ん? ビンビンだ」 「女に向かって言ってやれ」 「俺は気にすんな。薬も多目に持ってきてあるし、検査も受けたばっかりだ」 オヤジは随分昔、町の大半を覆うほどの大火災に巻き込まれていた。熱風を吸い込み続けた後遺症で呼吸器に異常があるし、足もそのとき失ったらしい。記憶が断続的なものとなり、整合性が取れず、過去の記憶はほとんど無い。これは酸素欠乏症も関連していると漏れ聞いた。 一応状態としてはマシな方であるらしいのだが、それでも可能なら病院に縛り付けておくべき病人だ。 しかし、これについて翔は強く言おうとはしない。 「てってって〜てってってて〜」 「際どい小ネタ挟みたがるよねオヤジ」 「そうだなぁ、どちからといえばモロよりある程度隠れている方が好みだ」 「何の話をしている」 「ふっ」 無駄に不適な笑みを浮かべて翼はシートを広げ、その上にエアマットを置いて空気を入れていく。こういう場所で寝る件で難点の一つに、地面の凹凸がある。寝る前に周辺の石や枝葉を拾って回るのも面倒なので、エアマットは意外と重宝していた。後は毛布なり被れば眠れる。 テントも一つの手だが、アレは荷物が多くなりすぎるので諦めた。 もし雨が降ればシートを上から被ってでも眠れるくらいには慣れがある。 「そうだ」 早々に毛布を被りながら翼が言った。 「ん?」 翔はその横へ自分の分を用意しつつ答える。 「彷徨ってる間に一つ思い出した事があってな」 寝転がり、星空を見上げているであろう翼の目つきが変わった。遠く、ここではない彼方を見やるビー玉みたいな眼。 翔は空気入れの作業を努めて止めず、視線を逸らす。 あの眼は、ある女の子の事を考えている眼だ。 ずっと前に彼が約束をした女の子。その内容も、その子が居る場所すら思い出せず、しかし絶対に叶えなくてはならないのだと翼は言う。とても大切な約束だからと。 だからこうして、ふとした瞬間に浮かぶ記憶の欠片を頼りにその子を探し回っているのだ。 馬鹿な行動だとも思う。 天野という苗字だけで人が見つかるなんて奇跡に近い。火災のあった街の情報はかなり焼かれていて当時の情報を漁るのは難しいし、今二人の面倒を見てくれているおじさんにも協力してもらってさえ見つからないのだ。 そもそも、魔法使いなんて存在を認める事から難しかった。 翔ですら最初はまた頭がおかしくなったのかと思い、とりあえず風呂の底へ沈めたくらいだ。だが実際に話を聞いてみると、曖昧ながらも妙に納得させられる部分が多くあった。それに翼が、人が苦しんでいるような嘘をつくとも思えなかった。 魔法使いに会って、それを学んだと言うが翼に魔法は使えない。 適正が低いとやんわり言われたことがあるらしい。その魔法使いの女の子はさぞ気を使ってくれたのだろう。翔も言われた通りに練習してみたが、やはり神秘なんていうものは感じられなかった。 「シリウス……光り輝くもの…………」 呟きはおそらく翔へではなく。 「シリウス?」 けれど聞いた。 少しだけ不安があったのかもしれない。 「あの子が好きだった星の名前。夜空で一番強く輝く白い星なんだと」 「シリウス、か」 「何度か一緒に見たことがあってな。真っ先に指差して言うから聞いてみたら話してくれた」 言い終わるのを待たずに空気入れを荷物へ仕舞うと、翔は広げた毛布を被って横になった。 少しだけ、無言の間。背を向けているので今の翼の表情は分からない。こうして知らない森の中、暗闇に目を凝らしていると何か途方も無い化け物が現れそうな恐怖を感じる。 腕を枕に鈴虫の合唱を聞いていると、後ろで翼が勢いよく起き上がった。 「アレだ!! シリウス!!」 「夏場に冬の大三角が見えるとは恐れ入った」 「え?」 「シリウスは冬の星だ。今は夏、見えないよ」 「なにいいい!? じゃあアレはなんて星だ!?」 知らないよ、という言葉を呑み込んで毛布を強く被る。 本当は眠気なんてまったくなくて、頭はぐるぐる回っているのに。 「てーい」 知ってか知らずか、オヤジはこういう時に必ず絡んでくる。 毛布を剥ぎ取られた翔はわざと不機嫌そうな声を出して言う。 「なにしやがんだよ」 「星の事知ってるなら教えてくれって!!」 「後で調べればいいだろ」 「今知りたいんだ!!」 「いいから毛布返せ」 「教えたら返してやろう、ふっふっふ」 「ったく……」 深くため息をつき、半身を起こす。 隣でオヤジは両手で毛布を抱え、仰向けのまま星を見ていた。もうこちらが教えてくれると信じているのだろう。翔は毛布をあっさり強奪して被りなおす。 「先生アレはなんて星ですかー?」 「俺だってそんな詳しくないぞ」 「俺よりは知ってるだろ〜」 「はぁ………」 心は穏やかに。 ふと、会ったばかりの事を思い出した。概ね今と同じような感じだ。塞ぎ込んでいた翔へしつこく付きまとい、いくら無視しても、いくら辛辣な言葉を浴びせ ても、いくら逃げても、彼は諦めなかった。いつの間にか病院中の人間がオヤジを応援して、翔が逃げるのも何故か応援されて、毎日毎日逃げ回った。 捕まったのはいつだったか。 そんなオヤジが翔の養父になると言い出したのはいつだったか。 いつの間にか、本当にいつの間にか、翔もオヤジも皆も、笑っていた。 「はぁ…」 二度目のため息。 幾分身体が軽くなった感覚を得て、 「早く早く〜」 それを待っていたようにオヤジが催促してくる。 「分かったよ」 そうして見上げた星空は――――。 ※ ※ ※ 「曇ってるな」 日が暮れて、星を眺めるのに絶好の時間がやってきた頃には、すっかり雲が空を覆い隠してしまっていた。 「残念・・・」 あまり残念そうでもない気だるそうな声で言う司を盗み見る。 彼女に案内されてきたこの観測場所は確かに絶好の場所だった。周辺は芝に覆われていて凹凸も少なく、大きな木が近くにないので見渡しも良い。その平地の中央付近に、比較的大きな岩が地中から顔を出している。彼女はその岩に凭れ掛かるようにして空を眺めていた。 ねずみ色の岩に雪のような白が重なる。司の、腰元まで伸びる白髪だ。月明かりを浴びて尚も白く、美しい。瞼を重そうに半分ほどしか開けておらず、瞳から は感情が読み取れない。顔立ちは姉の唯同様に整っているというのに、生気の薄れた白い肌にやせ細った頬や首が自然と目に付く。 本当に、ふと見れば幽霊にでも見間違えそうな姿だ。 翔は足元に置いたランタンの灯りを調節し、一息。 「……シリウスって分かる?」 オヤジが言っていた女の子が好きな星の名前。 「あれ」 雲の向こうを躊躇い無く指差す司を見て翔は思わずため息をついた。 「シリウスは冬の星」 「……なんと」 起伏は薄かったが、本当に驚いているような反応だった。 知らない事で翼との関連性が薄れた気がしないでもないが、同様に間違えている辺りなんとも言えない。第一、何故雲越しに指差したのか。 妙な詮索をしているな、と翔はこっそりため息をつく。 直接聞けばいいのだろうが、なんとなく躊躇ってしまう。 「少し突っ込んだことを聞いていいかな?」 緊張がそのまま出たのか声が硬かった。 「うん」 曇り空を変わらぬ表情で眺め続ける彼女の気持ちは読めない。自らを出来損ないの魔法使いと呼び、もう魔法は使えないと言った司。もう、ということは、昔は使えたということだ。 「なんで、魔法が使えなくなったの」 「それは」 呼吸の為の間。それと、言葉を整理しているのかもしれない。 「魔法を使う為に必要な事って分かる?」 視線が初めてこちらに向けられた。月明かりをそのまま宿したような瞳の美しさが、翔の胸を貫いたような錯覚を得る。 だから即答はせず、じっくり考えてみた。 「共感する、かな?」 「優しいんだ」 「え?」 予想外の返答に戸惑う。 翔としては、元とはいえ本当の魔法使いに答え合わせするようでかなり緊張したのだが、返ってきたのは感想だけだった。 「魔法の使い方にはっきりとした型はないの。相手の願いに共感する事で魔法を使うんだとしたら、きっと君は優しい、そう思った。………ふぅ」 一気に喋って疲れたのか、肩を落として息を付いている。 だらだら引き摺るような喋り方もあってか、話すことに慣れていないような印象を受けた。 「魔法使いは御伽噺の存在だから、常識に囚われない、だっけ」 「そう……だから、魔法使い同士の常っていうのも無い。法則みたいなものはあっても、必ずしも同じ方法で、同じことができるとも限らない。けれど、自分の中で一度定まった道筋は、その人が魔法使いである為に必要な事」 言われ、胸が痛んだ。 つまり魔法が使えなくなった司は、その道筋を見失ったという事なのだから。何故などという言葉は掛けられない 仮にオヤジとの約束が原因だとして、それの相手が彼女で間違いなかったとして、今伝える事が正しいのかが分からなかった。仮に約束を果たしたとして、そうすることで彼女が魔法使いに戻れるのか、戻ったとして幸せなのか、心が揺らぐ。 「私は……」 おそらくは、躊躇いの間。 「…見失っちゃった」 おどけて言う彼女の表情は相変わらず読みにくい。 言葉を失っていると、再び司は空を見上げた。瞼を半分しか開けず力なく岩に身体を預けて。そんな姿が、翔にはひどく疲れているように思えた。 一緒になって空を見上げる。 雲しか見えない、光の無い空を。 光り輝く者という名を冠するシリウスが少しだけ恋しい。 せめて星一つでも見えたなら、この気持ちを照らしてくれたかもしれないのに。どうしてだろう、求め続けて、ようやく見つけ出したというのに。 奮い立ててきた心が俯いてしまいそうになる。 しかし、 「よし!!」 香奈を見る。彼女を励まそうというのなら、翔が落ち込んではいられない。一度にすべて纏めて解決なんて難しいだろうが、一つ一つならなんとかなる気がした。自分にそれだけの力があるかなんて最初から度外視している。 一人の力で無理なら、オヤジも居る。 きっとオヤジなら力になってくれる。 「司さん、俺の魔法見てもらってもいい?」 返事も待たず翔は赤い登山リュックを探ると、クリアファイルの中から折り紙を取り出した。といっても新品ではなく既に紙ヒコーキの形に折られたものだ。 「色んなのが入ってるんだ」 少しだけ興味あり気に司がリュックの中を覗き込んでくる。 「半分くらいオヤジと集めたガラクタで埋まってるからね」 この紙ヒコーキは一度試した事のあるモノだ。願いが宿ってからの時間経過によって薄れるか、それが完全に届けられたら使えなくなるが、今ならまだ魔法の素材には使えると思う。 宿っている願いはささやかなもので、だからこそ未熟な翔にも扱いやすい。 紙ヒコーキの形を整え、指で挟んで持つ。翔としてはこうしてモノ本来の使用用途や、願いを宿した人間と同じような状態で行ったほうが成功率が高いのだ。 幾らか緊張はあった。 こんな穴ぼこだらけの魔法を、元とはいえ真の魔法使いに見せていいものか。 だめだと首を振り、背中からの風を感じる。雑念があればそれだけ失敗しやすい。なにせ翔は願いに共感する事で魔法を使うのだから。 目を閉じる。 暗闇の中で、残された全ての感覚をあるがままに受け止める。 息を吸い、再び背中を押した風へ乗せるように吐いていく。身を任せて、風に乗るように。次第に風に押される感覚が消えていく。何故なら、この身は風と同化しているのだから。音も消えた。耳元を騒がせていた風の音は共に彼方へ飛んでいく。 目を開いた。 その世界には既に色が無い。 正確には、白と黒以外のすべてが抜け落ちている。暗いのでも明るいのでもなく、ただ二色が埋める世界。 空虚のようで、だからこそ何色にも染められる。 ここが翔の始発点。 ここへ回帰して初めて、翔は神秘を感じられる。無自覚なままに感じられないのは、まだまだ己が未熟だからだろう。 それでも今は、 『――――つまんないよぉ』 小さな女の子の声。 両親の帰りを待ち、家のベランダから放った紙ヒコーキ。 いつも父の言う事をよく聞いて、母と一緒におかし作りをして。 純粋な女の子が行った、世の中へのちょっとした反抗。ちいさな八つ当たり。 きっと親に見られたらベランダから物を投げてはいけません、なんて言われるだろう。分かっている。けど折角今日は早くに戻ってくると思っていたのに。お友達からの誘いも断って、一人で家の中を綺麗にして、帰ってきた母に褒められるのを期待していた。 「ひどいよなぁ」 けれど、 『――――がんばって、お父さん、お母さん』 優しい子だ。 そして強い子だ。 ただ、だからといって寂しさが消える訳ではない。 自分はどう頑張ったって両親の職場へは行けない。物理的な問題以上に行けば困らせてしまうし、すれ違ってしまうかもしれない。もしそうなったら心配まで掛けてしまう。 だからせめて、 「それがいい、やってみよう」 呟きと同時、紙ヒコーキに宿っていた何かが弾けた。 あたたかで、ささやかで、優しい女の子の願い。 『――――この紙ヒコーキ』 「――――飛んでけぇっ」 風が吹く。 指から離れた紙ヒコーキがそれに乗り、ゆるやかに飛行を始める。 家から離れられない女の子の変わりに、両親に会いに行ってくれる自分の分身として。 きっと届く。届け。届け。届け。 自然の風さえ無視して飛び続ける紙ヒコーキ。 できた、そう思って翔が周囲を見ると、モノクロの世界には色が満ちていた。暗くて、曇っていて、けれど胸の奥がどこか暖かい。 成功だ。 すべて終わるまで見届ける事は出来ないが、翔自身驚くほどしっかりと魔法が発動したと思う。 「どう…かな?」 照れが混じって頬をかく。 手を繋いだままの香奈がじっと紙ヒコーキが飛んでいった先を見ていて、少しは気晴らしになったかなと思う。そしてやや緊張しながら司を見ると、 「…びっくり」 びっくりしていた。 「え?」 何か違ったのだろうかと不安になる。 これでもかという程の出来だったと自負していた自分が急激に恥ずかしくなるくらいには。 「あの紙ヒコーキ、どこにいったと思う?」 「ん〜、真っ直ぐ飛んでいって、適当な所で落ちると思う」 翔はあの女の子も、その両親も知らない。ましてや仕事先なんてさっぱりだ。あくまで二人を元気付けたくてやったので、女の子には申し訳ないが翔には叶えられない。 ああして紙ヒコーキを飛ばすので精一杯だ。 「……そっか」 前のめりになっていた体を再び岩へ預け、しかし今度は何も眺めない。 ランタンの灯りに照らされる彼女の瞳には見覚えがあった。ここではない何処か、あるいは誰か、届きようのない彼岸を思う目だ。少しだけ胸が痛む。 翔は黙して彼女の継ぎを待った。 十秒、二十秒と経過する。風が止まり、虫の音が合唱を始めた。ランタンから空気を燃やす音も混じる。衣擦れの音がした。 「そっか」 少しだけ嬉しそうな声。 「魔法…は、翼から教わったん…だよね」 不自然に途切れる言葉。理由を見ないよう背を向けて、翔は答える。 「うん。二人で色々考えたんだ。オヤジが魔法を習った……天野さんの言葉を頼りに、俺達なりに考えた」 「…そっか」 三度繰り返した言葉。 けれど内に秘める想いはまるで違う。何が原因で、どうしてなのか、翔には判断が付かなかったが、オヤジを想って涙してくれる彼女に胸の奥が熱くなる。知らず手をやっていた左胸から離して目を瞑る。 「唯姉さんがきっと、館に連れて行ってくれる、と思う」 「ここに来る前に誘われたな、そういえば」 「それなら、館の二階の…奥の小部屋の……机の中の…中にある、本を読んでみて」 たどたどしい説明に耳を傾けていた翔は、本という単語に目を開く。魔法使いから本を読めと言われる、これはまさか魔道書とか呪文書とかそういう類のスーパーアイテムではなかろうか。 「翼みたいなこと考えてない…?」 「オヤジに俺程高尚な考えが浮かぶ筈はないから大丈夫」 「ふーん……」 なんだかジト目で見られてしまった。 いや決して魔法と聞いて最初に炎属性の魔法とか使いたいなぁなんて考えてない。しかしこうしてみると司はかなり子供っぽい雰囲気がある。まさに大人の女性を代表するかのような唯とはこれでもかという程に正反対だ。 「んと…それがね、ラール君って言うんだけど――――」 「待った。なんで本に名前がある」 「…翼がつけたんだよ」 「あいつ頭おかしいのは昔からだったのか?」 「…………」 「…………」 「……………………」 「……………………」 「それでね」 「流した!?」 「別名”知識の本”って呼ばれてるもので」 「そっち正式名称だよね」 「持った人の望む知識を与えてくれるの」 「うん、スルーだ」 「話聞かないなら止めるよ」 「ごめんなさい」 この場合悪いのは自分なのだろうか。流れはもうシリアスなのだろうか。 「変わりに本はその人の知識、あるいは記憶を得る。貰った分を渡すから全部じゃないんだけど。それで…そうやって集めた知識は私や唯姉さんよりずっと豊富。きっと翔の魔法に必要な知識とか、記憶を教えてくれる………ふぅ…つかれた」 溶けた水飴みたいに全身の力を抜いてうなだれる司はどこか楽しげだ。 ”知識の本”というのには非情に興味がある。知識を蓄える本なんてまさしくゲームみたいなアイテムだ。 「館には…というより館そのものが魔法の結晶みたいなものだから、あそこに行けばきっと、もっと神秘を感じられるようになる」 「そっか………すっごい楽しみだ」 「でも今は駄目なんだよね」 「あぁ、先にやらなくちゃさ」 二人して香奈を見る。 消沈した彼女は未だに自発的な行動をほとんど起こさない。感情らしい感情を見せたのは翔が手を離すふりをした時だけだ。閉じこもっているのか、湧き出さないのか、それは分からない。けれど時間を掛けてでも一緒に居ればきっと元に戻る。 崖から落ちる寸前までは確かに在った彼女の感情。 驚き、慌て、引き止める為に馬鹿な事を言った翔へ力一杯つっこめるだけの気力が在ったのだ。良いのか悪いのか、翔へは依存するように付き添ってくれている。ならそこから突破口が開けるのではないかとも思う。 切っ掛けは些細なものだ。 すべてを失った後に訪れる空虚さを翔も知っている。 モノクロの世界、白と黒が支配する根幹となる風景。魔法を使うときに見るアレは翔の心象風景とも言える。そして、その白黒には彩りが与えられるという事も。 何色にも染められる。 失った後でも、新たに始めることは出来るのだ。 一人が無理なら二人ででも。 「明日は香奈と街中を散策します」 「うん」 言って、司は足元に置いていた毛布を手繰り寄せる。 「寝るならエアマットがあるけど」 「いい、このままで慣れてる」 「そうか」 少しだけ悩み、翔は司と同じように岩に背を預けて寝る事にした。 空は雲に覆われているが、風上からは切れ間が見えた。 もう少しすれば星空が見えそうだ。 ※ ※ ※ 鳴らなくなった電話を虚ろな瞳のまま見つめている。
冷タイ。冷タイヨ、ツバサ。身体ガ、冷タイヨ。
指先から流れ落ちる赤い液体は月明かりをきらきらと反射して宝石のように輝いていた。それをもっと見てみたくて光に翳す。指先から真紅の蛇が皮膚上を這って迫りくるような感覚を得た。背筋が震え、笑みが出る。 赤い。赤イヨ、ツバサ。アノヒノ様ニ。 すべて燃えていた。世界が赤に染まっていた。世界がリセットされていく。
イケナイ。
意識をこちらへ引き戻し、改めて指先のソレを見る。
コンナモノデ、飛ベルモノカ。
「ふふふふ………」
ザマアミロ。
ツバサ。
木彫りの首飾りを顔に寄せ、愛おしそうに頬ずりする。
貴方ハ、私ヲ裏切ラ無イヨネ?
舐めとった。 甘く――――冷たい。
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