翼の話を一通り終えた後、翔は早々に出て行くことにした。
 会おうと思えばいつでも会える。弟子入りにだって誘われているのだから、そう慌てる必要もないだろう。
 まずは、香奈の事をどうにかしよう。
 そう思った翔は一度出会った場所に戻る事にした。ついでに荷物も探せれば一石二鳥となる。
「今日泊まる所がなければまたいらっしゃい。夜になれば妹も返ってくるでしょうし」
「妹さん………天野 司さんでしたっけ」
「あの子も翼くんの事は知ってるから、きっと聞きたがると思うの。その時は私も一緒に聞かせてね?」
「はい。何から何までお世話になります。また来ます。では」
 深々と礼をして翔は門を出た。
 終始離れて見ていた歩と呼ばれていたあの少年とは、結局話せずに終わってしまったけど。
「香奈」
 呼ぶと、握り返してくる。
 名前を教えてくれた事からも話せない訳ではないと思うのだが。
「今から一度あの場所に戻るね。それで、出来たら話を聞かせて欲しいんだ」
 ふりふり。
「嫌なの?」
 コクリ。
「そっか。なら俺の荷物だけでも探しに行っていいかな?」
 コクコク。
「よし行こう」
 手を引いて歩き出すと、こちらの速度に合わせて香奈は歩く。まるで小鴨が親鴨の後ろをついて歩くみたいに彼女は翔から離れない。繋いだ手はいつの間にか常に触れていけないと死んでしまうかのようだった。
 帰る手前にトイレを借りたのだが、個室にまで入ろうとする彼女をなだめるのは大変だった。最後は大きなカーテンまで用意してもらってなんとか用を足したのだが、正直緊張であまり出なかった。
 翔とて立派な成人男子である。
 過剰に反応こそしないが、小の真っ最中に女の子と手を繋いでいて堂々と出来る程達観はしていない。むしろ物凄く緊張したし羞恥もあった。
「(あれ、お風呂とかどうするんだろ)」
 やや野生的な生活をしてきた翔にとって多少の風呂無しは気にならない。人と会ったり街中を歩くとなれば必ず入るよう気をつけているが、自然の中で暮らす場合はそうでもなかったりする。
 場合にはよるのだが。
「(香奈は………どうなんだろ)」
 女の子に不衛生な状態で居ろと言うのも気が引ける。
 その一点だけはどうにも聞けず、二人はゆっくりと歩き続けた。まだまだ陽が落ちるまで時間はある。そう急がなくても大丈夫だろう。
 道すがら香奈には他にも色々話しかけたが、言葉はまったく返ってこず、相変わらずの手なり頭なりで応じてくる。
 そんな感覚は翔にも理解出来た。
 気力が湧いてこないのだ。
 声を発するというのは思う以上に気力が必要だ。心の底から落ち込んだ時、最低限の力も出せず、身体という枠の中でひたすらに閉じこもっていたくなる。最悪周囲からの影響に一切反応しなくなるのだが、幸いにも彼女はこちらが声を掛ければ動きで返事が出せる状態ではある。
 きちんと向き合って、抱えているものを取り除くなり一緒に抱えるなり出来れば元気に笑える筈だ。
 そうやって翔は翼に力を貰った。
 あの、冷たくて暗い場所から太陽みたいに晴れ晴れとした笑顔で引きずり上げてくれたのだ。
「………?」
「? なんでもないよ」
 にやついていたかも知れない。
 少しだけ気持ちを引き締め、翔は借りた鍵で鉄柵の扉を開けた。
 この雑木林は天野が管理している土地だったらしい。素直に話して謝ると彼女は笑いながら許してくれて、鍵と地図を貸してくれた。
 磁石だけは肌身離さず持ち歩いていたので、詳細な地図さえあれば翔が迷うことはない。彼は一度歩いた道なら大抵記憶しているタイプの人間だ。外縁部からの近道も分かったし、まずは落下した後の場所へ向かいつつ迂回して荷物が飛んで行ったであろう場所も探してみる。
 野宿も慣れたものだが、あの赤い登山リュックには生活に必要なものが沢山入っている。
 財布だってあの中なのだから、今後の為にも探さざるを得ない。なにより、長い間苦楽を共にした大切なものでもある。
 香奈へ他愛の無い話をしながら森を歩いていると、その中に不自然なものを発見した。
 ナベだ。
 間違い無く翔の登山リュックに取り付けていたもの。
 キチンと金具で繋いでいた筈なので空中で放り出されたとは考えにくい。となると、落着時の衝撃によって外れたと考えるのが正しいだろう。
 翔は周囲へくまなく目をやり、やや上方、木の枝が折れているのを見つけた。そこの様子を観察しながら近づいていくと香奈の手が僅かに震え、視線を落とすとそこに登山リュックとそれに押し潰された人らしき物体があった。
「…………ん?」
 俯けになった状態で背に登山リュックが乗ったその人はまるで動きを見せない。
「あ………あれ?」
 結構な重量が入っていた筈だ。
 あの丘の上までの高さがどれだけあったか正確な所は分からないが、ともかくあれから何時間か経っているというのに未だに動いていないとなると――――
「ええええええええええええええええええええええ!?」
 弾かれた様に走り出し、近くまで辿り着いた翔はすぐさま登山リュックを空いている右手だけで退かす。そして屈み込み、倒れているのが間違いなく人間であるのを確認した。
 真っ白な髪だ。遠目からはもしかしたらマネキンかもとまで思ったその純白の髪は、持ち主の腰元まで伸びている。その隙間から見える肌も、決して人形のものではない。
「どどどどどどどうしよう!?」
 まごうことなき人間であると確認した翔は錯乱気味に香奈へ尋ねる。こんな状況でも落ち着いたままな彼女なら何か冷静な判断をしてくれるかもしれない。
 白いフードが角度を変え、おそらくは倒れている人を彼女は見た。
「………トドメ」
「よしとりあえず凶器はナベで、って名前以外に喋ったと思ったらソレかーい!! だめじゃん!! トドメさしたら完全に犯罪よ!?」
「……………」
 つい本能的にツッコミを入れると、香奈はそっぽを向いてしまった。
「あ、あれー? 香奈? もしもーし?」
「……………」
「あの〜、香奈? 分かってる。分かってるからね? 冗談で言ったんだもんね?」
「……………」
 くい、と腰を横に曲げてフードの中を見ようとする。
「むむむ」
 逃げられた。追う、逃げる、追う、逃げる。その繰り返し。
 追いかけても追いかけても逃げるので翔は一度動きを止め手を離すフリをした。すると慌てたように彼女は離れていこうとする左手にしがみつき、その際、泣きそうな顔が見えて心がズキリと痛みを覚えた。
「――、―――――――っ!!」
 声にならない声をあげて身体を震わせる香奈を翔は抱き寄せ、頭を撫でる。
「ごめん」
 軽率だった。
 いたずら気分でやるような事ではない。今の彼女にとって人との接点はとても重要なものだった。
「ごめん」
 再度言うと、いいの、と胸元に押し付けられた頭が左右に揺れる。
「それでも、ごめん」
 身を預けてきた香奈の重みを感じながら、翔は視線を下ろす。そこには未だに倒れたままの人が、
「あれ………居ない?」
「君が退けて………くれた、のかな」
「ひょわあ!?」
「っ?」
 背後から聞こえたか細い声に翔が悲鳴をあげると、それに驚いた香奈からも僅かに声が漏れた。
「あ………ぁ、ぁ〜、ありがとう」
 だらだらと引きずっているような声で言うその人へ恐る恐る顔を向けると、半分くらいは開いていないような力無い目と透き通るような純白の髪がひどく対照的で目に付いた。
 おそらくは、つい先程まで倒れていた人だ。
 見るからに生気の薄い、地に足が付いていない感じだった。一応確認したが足はしっかりついていた。おばけではないらしい。
「生きて、らしたんですね」
「……………………寝てた」
「寝てた!?」
「身体が……重く、て、動かなかったから…………」
「寝たと?」
「とりあえず」
 想像を絶する思考だった。
 いや落とした本人が言うのもアレだが、いくら背中に動けないほど重い物が乗っかったからといって、とりあえず寝ようなんてどうやったら考えられるのか。
 第一、何故こんな所に居たのだろうか。
「星、を……見に」
「あれなんで考えてること分かったの」
「え……? あぁ、そんな気が」
 したのか。
「そう」
「的確!?」
 そんなに分かりやすいのだろうか。
 翼からも単純単純と言われてきたが、それ以外の人から明確に評価を貰ったこともないので判断が付かなかい。いやあの男に単純と言われるほどだから実はとんでもなく単純だったのかもしれない。いやしかし、
「大丈夫」
「励まされたぜイエーイ! 分かる以前に考えの先読みまでされちゃってるよ!」
 落ち込みかけた心をどうにか立て直して空っぽの元気を振り絞った。
「ところでお姉さん」
 呼ばれ、白髪の女性は視線を寄越し、
「怪我とか、大丈夫かなって」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「…………足首痛い」
「遅っ!?」
 しゃがみこんで左足首をさすり出した。
「痛い……」
 だらだらと喋っているせいかまるでそうは聞こえないのだが、実際潰されていた事を考えると楽観視するべきではないだろう。
「見せて下さい」
「ん…………」
 同意、と取ってもいいだろうか。
「失礼しますね」
 取ることにした。
 屈みこむと白髪の女性が地面に腰を落として左足を差し出してきた。おずおずとした動きは警戒しているというより恥ずかしさが強いのだろうか。
 裾にレースが付いた紺色のロングスカートから差し出された足は驚くほど細く、白く、綺麗。
 あくまで診察だという意識でいた翔は思わずドキリとし、そして横合いから何故か強烈な視線を感じた。やや慌ててそちらを見ると、我関せずといった様子で白いフードがそっぽを向いてる。嫌な汗が頬を伝った。
 微妙な緊張感の中、それでも律儀に言った事はやり遂げようとまずは触診する。
「痛かったら言って下さいね」
「痛い」
 即答だった。 
「痛む所で教えて下さい」
「……………………そこ……………………そこ……………………そこ」
 「なんで三度も往復したの」言葉にならなかった声がフードの中から聞こえてきた気がした。翔は至極真剣な表情でそれを流し、本能に殉じた己を戒めつつも賞賛する。とても綺麗でやわらかくってすべすべな足です、えぇ。
「………ごめんなさい」
「?」
「………いいえ」
 気持ちを改め、痛むと言われた場所を見ると確かに僅かなふくらみがあるように思えた。そう酷いものではないが、場所や状況からして捻挫の可能性が高い。
 足首という場所も問題だった。
 これで歩くのも辛い状態となると、ここから戻るのは困難だ。
 なにせ周囲は雑木林に囲まれていて舗装なんてまずない。登りもあれば下りもあるし、足を取られるような箇所も多くあった。そこを捻挫という状態で歩くのは大変だろう。
 考えるのは止めて、とりあえず翔は治療を優先した。
 思考で動きを止めるくらいなら動いた方が手っ取り早い。
 退かした登山リュックから片手で包帯と湿布を取り出す。こういう緊急用の物はすぐ出せるよう外付けポケットに入れてあるので探す必要もなかった。
 と、ここで翔は香奈と繋いでいる手を引き寄せフード越しに耳打ちする。
「ごめん、片手じゃ出来ないから、せめて別の場所でもいいかな?」
 感触が手から腕へと伝い、自然と距離が縮まった。
 翔は気にせず白髪の女性の足首へ湿布を貼り、包帯を巻いていく。手付きは慣れたもので淀みが無い。
 普段からオヤジと自然の中で馬鹿やったりしていた後始末が意外な所で役に立つものだ。
「そういえば、名前聞いてもいいですか? 俺は藤堂 翔。こっちの子は香奈っていうんですけど」
 少しだけ足が震えた。
 力が強かっただろうか。

「わ……たしは…………天野……司……」

 自然と動きが止まった。
 目が合う。今までとは少し違う、やや活力を帯びた瞳だった。相変わらず半分くらいは閉じたままだが、奥底にはなにか強烈な感情が宿っているのが分かった。
 言われてみれば、天野 唯と似ていなくも無い。
 だが彼女は綺麗な黒髪だったし、今目の前にいる司と名乗った女性は見事なまでの白、それも純白と言っていいような髪の色だ。服装もピシっとしたスーツだった唯に対し、彼女はラフなTシャツにロングスカート。
 纏う雰囲気だってまるで違う、面白いくらいに正反対な二人。
 言葉もなくそうやって視線を交わしていると、司の顔が一気に赤くなり立ち上がったかと思うと一目散に尻尾巻いて逃げ出した。
「え?」
 突然の行動に意味が分からず呆然とそれを見送る翔だったが、
「あ」
 こけた。

   ※  ※  ※

 「っと、気をつけて」
 星を眺めに来たと司は言った。
 普段からあまり活動的ではないらしい彼女だが、たまに天気が良くて且つ体調の良い日には思いつきで見に来るのだという。
「………あ、りがと」
 肩を貸し、目的地へと連れてきた翔は司を地面へ下ろす。
 本当はここから出るべきだったのだろうが、何故か逃げようとする司を抑えるには要望を叶えるしかなかった。距離的にも十分と掛からず、怪我人に無理をさせないという点では正解だっただろう。
 とはいえ、肩を貸し、もう反対側も腕を取られ、その手で登山リュックを持ってくるというのは少々やりすぎた。
 距離が近かったのだから一度司をここへ連れてきた後にもう一度戻って取って来れば良かったと思う。近いし少しぐらいなら平気だい、なんて自意識過剰な事を考えていた十分前の自分を諭してやりたい。
「よ〜し」
 疲れた腕に鞭打って登山リュックを開ける。
「司さん、コレ足に掛けといて」
「ぁ……っおぷ…」
 翔が毛布を投げ渡すとそれを取ろうと手を伸ばしたのだが、何故か前へ飛び出し顔面で受け止めた。ちゃんと足元へ放ったというのに自ら飛び込むとは。
 もたもたと体を起こし、几帳面さの伺える手付きで丁寧に毛布を広げて足へ掛ける。
 十分に暑い季節ではあるが陽が落ちてくると流石に冷えるだろう。
「痛みが強くなってきたら教えてね」
 万一にでも骨に異常があったなら大変だ。
 痛めた直後は何も感じなくとも、日を跨いでから症状に気付くことは十分に考えられる。
「うん………」
 子供みたいな動作で頷く司は、先刻天野の館で会った唯の妹で間違いはないのだと言う。
 とすると翔よりずっと年上な筈なのだが。
「あつ………あつい……」
 掛けていた毛布をあっさり外して両足を放り出す様は同年代と考えてもやや高い印象だ。一方で重そうな瞼やだらだらと引き摺るような喋り口調は実年齢以上に草臥れた感じがしてしまう。
 ここに来るまでの会話もぎこちなく、しかも痛み以前に運動神経の鈍さ等々を含めてすっかり話すのに気負いがなくなっていた。
「司さん」
 一応、呼び捨てにはしていない。
「………ん?」
 気だるそうな顔をこちらに向け、
「貴方も唯さんと同じように魔法が使えるんですか?」
 そのまま膠着する。
 思考か、停滞か。
 肩を貸して歩いている間に唯へしたのと同じ話をしたので、その時の様子からまさか魔法を知らないとは思わないが。
 本当は落ち着いてからちゃんと話すべきかと思ったのだが、司の食い付き様から断れもしなかった。
「わたしは…………」
 足を折り曲げ、膝を抱えた司の硬い声。
 それはとても寂しそうで、小さくて、寒さに震えるようだった。
 だとしても翔は確認しておきたかった。オヤジの言っていた魔法使いの女の子とは唯と司のどちらだったのか。
 記憶が混濁していたオヤジの話ではさも一人だったように語られていたが、天野という名の魔法使いが二人居た場合、それを聞かなければならない。司が魔法使いでないとすれば考える必要も無く唯がオヤジの言っていた約束の女の子だ。
 渡した首飾りも唯の作ったものだと言うし、間違いではないと思うが。
「………んんん」
 喉を鳴らして俯く彼女に、オヤジの言っていた話を思い出す。
 魔法使いはとても孤独だったらしいと。
 周りに居る、彼女をとても助けたがっていた大勢の人に気付かずずっと一人ぼっちでいたという。唯一顔を合わせて会話をして貰えるオヤジに皆して彼女を助けて欲しいと言われたのだと。
 きっととても不器用だったに違いない。
 そんな翔の予想と、今の司の姿がやはり重なる。
 一緒に居るときの明るく元気だった女の子とはかけ離れている気がするものの、何故か彼女であって欲しいと願望じみた感情を翔は抱いていた。
「わたしには…………」
 顔を俯かせたまま、泣き出す寸前の搾り出すような声で、

「わたしには、もう魔法は使えない」

 膝を強く抱きこみ、懺悔するかのように――――

「私は……出来損ないの魔法使いだったから……………」








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