雲一つ無い快晴。 昼の食事時を終えた時頃だが人通りは少なく、少年、藤堂 翔(とうどう かける)は大きく伸びをしながら眼前の坂道を見上げた。 ふん、と鼻息荒く気合を入れる。 歳の頃は17を過ぎた辺りか。幼さを残す顔立ちにうっすらと色の抜けた髪、浅く焼けた肌は日頃から陽の元で過ごしているのが伺える。 大きく開かれた瞳には活力が漲っており、この坂道を前に取る表情としてはダイエット中で買い物帰りな主婦のそれに近い。 程よく筋肉の付いた腕をぶらぶらと振り、続いて屈伸運動。 「武士如何なる時も準備を怠るべからずbyオヤジ」 一人呟き、後ろに置いていた赤い登山リュックを背負う。 と、そこで翔の脇を通りかかった通行人が珍しそうに彼を見た。それもその筈。その登山リュックには鍋やオタマといった調理用具に分厚い日本地図が装着さ れており、こんな街中ではそう見かけるものではない。何より目立つのは、後ろのネットからはみ出す木の棒。長くもないが短くもない、彼の肘から手首くらい の長さがある。インテリアにでも使うような綺麗な表面ではなく、ただ時間経過によって徐々に削られた木肌がそのまま晒されている。 「おっし行くぞ!!」 気合一声、翔は中身までぎっしり詰まった登山リュックを背負ったまま、険しい坂道を物凄い速度で駆け上っていった。 ※ ※ ※ 遺書は書かなかった。 いや、書けなかった。 最後なのだから、せめて何かを残そうと紙に向かい、ペンを持ち、しかし、出てきたのは涙ばかり。濡れた紙をぐちゃぐちゃに丸めて放り出して、彼女は家を出てきた。 飛び降りるなら景色のいい場所にしよう。 そう思って、家から十駅も過ぎた名前も知らない町の、名前も知らない丘の崖へ踏み出していく。普段しないような行動に出たのは、少しでも何かから開放されたかったからか。 恐怖はあった。 でもこのまま生きていくよりずっと楽だと思った。 靴を脱いで、草の上に靴下で乗ると不思議と心地が良かった。サァ、と吹き抜ける風に背を押されて、ゆっくり歩いていく。 遠くには海も見える。 空はとても綺麗。 行こう――――。 言葉も無く最後の一歩を、 「おー良かった!! ねえねえ道に迷ったんだけど外への行き方わかんない!?」 ※ ※ ※ 全力で坂道を駆け上がり、勢い余って正面の森林(私有地。柵は何故か開いていた)へ突っ込み、足を踏み外して転げ落ちた翔は方角すら分からず彷徨い歩いていた。 偶然にも人に出会えたのは転落から三十分ほど経った頃。 「あれ? 聞こえてる?」 翔が再度声を掛けると、女の子はようやくこちらへ顔を向けた。 やや呆然とした表情の彼女は、外国の血でも入っているのか日本人離れした顔付き。歳の割には落ち着いていて、目鼻がくっきりとしている。くりくりの瞳はやや色が茶色がかっていて、枯れ草色の髪を左右で束ねてツインテールにしていた。 「道を尋ねたいんだけど、分かんないかな?」 「はい? …あ…………」 両手を挙げて迷いましたをアピールすると、戸惑ったような声が返ってきた。 そこで改めて翔は女の子の様子を観察した。 靴を脱ぎ、綺麗に揃えて靴下で草の上に立っている。その先には地面が無く、おそらくは崖。丘といっても登ってきたあの坂の険しさを考えれば相当な高さになる筈だ。そしてここはあまり人の来ないであろう奥地。 ややぶしつけな目を向けてしまったせいか、女の子は居心地が悪そうにしている。 うむ、と大きく頷き、 「ピクニックの最中に申し訳ない」 「違います!!」 「ええ!? ちがうの!?」 「どこをどう見てそう思ったんですか!?」 「いい景色だし」 「靴脱いでるんですよ!?」 「開放感に浸りたい時ってあるある」 「こんな崖っぷちで!?」 「空飛んでるような気分になれるよね」 女の子から力が抜けたのが分かった。 とその時、一際強い風が走り抜け、 ふわりと――――女の子の体が崖から放り出された。 彼女にとっても予想外だったのだろう、茶色がかった瞳が大きく見開かれたのが見えた。ふっくらとした唇から何か言葉が放たれようとして、 「おおおおおおおおおおおおおお!?!?!?」 視界から消えた女の子へ向かって、翔は思わずダイブしていた。 一瞬の浮遊感、重力から解き放たれたかのような錯覚の後にやってきたのは、逃れられる筈もない落下の感覚。 衝動的だった。 考えすらなく飛び出した。 だというのに、翔の顔には一片の後悔も無い。 「手を伸ばして!!!」 叫び、右手を精一杯伸ばして翔は崖の側面を走った。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」 崖はやや傾斜になっており、表面がごつごつしているおかげで引っ掛かりはある。外へ押し出されないよう踏む力加減に気を付けなければならないその中で、彼は無茶苦茶な勢いで駆け下りていく。 まっすぐに、名前も知らず、会って数秒の女の子を助ける為に。 「手を!!!」 伸ばし、目の前まで迫った女の子を見る。 彼女は信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。しかし翔は構わず叫ぶ。 後僅かと迫ったが、もういつ足が縺れてもおかしくない。極度の興奮で痛みこそ感じないが、足首も膝もしっかり動いてくれなかった。 「早くッ!」 だから、彼女を捕まえるには、彼女自身に手を伸ばしてもらうしかない。 「っ――――!!」 女の子の身が震え、何かを言おうとする。声は音にならず掻き消えて。 「伸ばしてッ!!」 今にも泣きそうな顔で彼女は手を伸ばし、指先が触れ合い、 「よし、ってうおおああおあうおおおおおお!?」 翔は崖の表面に足を取られて完全な中空へ投げ出された。 支えのない身体はきりもみ回転し、どちらが上でどちらが下なのか、それさえも判別がつかなくなる。だが翔は、背負っていた登山リュックから木の棒を取り出し他を投げ捨てると、ひどく慣れた動きで身体を制御し水平姿勢を取り戻す。 今や位置関係の入れ替わった女の子を見た。 絶望的な位置取り。だが翔の表情には一切の諦めが浮かんでこなかった。 「頼むぜオヤジィ!!」 翔は木の棒を手に、全身の力を一気に抜いた。そうすることで保たれていた姿勢が再び崩れ、ぐるぐると世界が回り始める。 吐き気を催すようなその状況でしかし、翔は穏やかに笑う。 かつて、翼はよく空を飛びたいと言っていた。片方はまともに動かないような足で木登りをして、挙句に枝を折って転落だ。 自分が世界と同化するような、混じり合う感覚を得て翔は再び姿勢を制御。 今握っている木の棒はその時の枝だ。 シン――――世界から音が消え、色が抜け落ちて、 その刹那、 『――――飛びてぇ』 「あぁ………」 聞こえた。 最後までその願いを叶えられなかった翼。足を怪我して、パイロットになる夢が果たせなくなった翼。それでも、一度も後悔しているとは言わなかった。 「悪ぃなオヤジ、今は俺達を飛ばしてくれや!!」 途端、木の枝に宿っていた何かが弾けた。 それは人の願い。とても真っ直ぐで、輝いて見えるような空への憧れ。 高く、もっと先へ。 遠く、遥か彼方まで。 『――――どこまでも』 「――――行こうぜえッ!!!」 願いよ届け。 言葉にするでもなく、全身から声が溢れた。 それは常世ならざる力。 機械の認知する法則から外れた、人の抱く幻想。 求め続ける想いが生み出す奇跡の体現。 叶わぬと知って尚、空へ挑み続けた一人の男の願い。 それが届けられた今、この場この一時に限り――――世界の法則は覆る。 全身が羽毛に包まれたような柔らかい感触と共に、それを自在に操れるだろうと翔は確信した。この願いの主はそういう事を望んでいたのだから。 とはいえ、翔の魔法は不完全。 五回に一回しか成功しないし、成功しても達成までいける事は稀だ。だから今回のコレは翔にとってまさに会心の出来だった。 姿勢を制御するまでもなく空中で飛び上がり、女の子の元へ瞬く間に辿り着く。 彼女は落下中に姿勢を崩したらしく激しく回転しており、翔はやや逡巡するも木の棒をポケットに差し、思い切ってかき抱いた。手を掴み、腰を取っての抱き寄せ。 「え…………?」 「悪ぃ、遅くなった」 「なん、で…………」 右肩辺りから涙の混じった声が聞こえ、 「もう大丈夫だからッ」 それを元気付けるように翔は笑いながら声を張り上げる。 二人は今、空を飛んでいた。 自由に、自在に、望むままに行けると翔は思う。 蒼の輝きに包まれる中、遠く眺めたのは街の向こう、海の彼方だった。いつもはそう考えないのだが、オヤジの願いに包まれた今はその彼方がとても魅力的なものに思えた。 しかし今見るべきなのは腕の中にいる女の子だ。 直接触れた事で魔法が共有された為、彼女の身体も彼女自身が望めば飛べるだろう。かといって初めて魔法を体感する子に飛んでみろと言って身を離したりはしない。最悪落下すると思ってしまうと本当に魔法の力で落下してしまう恐れもあるからだ。 思った以上に華奢な女の子の体を抱きながら上へ行こうと思ったが、 「あ〜やっぱり長続きしないか」 体を包む神秘の力が、徐々に弱まっているのが分かった。 おそらくこのままゆっくりと降下するだけで精一杯だろう。そこまでやれる事自体、翔にとっては凄まじい結果だ。 「大丈夫、絶対に死なせないから」 呟きが不安にさせたかと思ってそう言うと、突然女の子は泣き始めた。 今彼女は翔の肩に頭を乗せている形なので顔は見えないが、それでもぽろぽろと流れ落ちる涙が肩を濡らしていくのは分かる。 激しい嗚咽、震える身体、同じくらいの年齢である女の子が赤ん坊みたいに辺り構わず泣き叫ぶ姿は悲痛な何かを感じさせた。きっと、落下の恐怖だけではないその何かは、彼女が今まで溜め込んでいたものだ。 狂ったように暴れだそうとする彼女を、翔は地面へ辿り着いたその後も、じっと抱き締めていた。 ※ ※ ※ ぐずり、と鼻を啜る音を聞きつつ翔は眼前の洋館を見上げた。 後ろ手には白いフードを目深に被って俯く女の子の手が繋がれており、もう片手には走り書きらしきメモと手書きの地図の書かれた紙がある。 あの後何を聞いても話そうとしない彼女を置いておく事も出来ず、しかし約束の時間は随分過ぎてしまったのもあって翔は彼女も一緒に連れて行くことにした。一応靴は翔の予備を履いているが、やはりサイズが違うせいか歩く時にふらつくこともあるようだ。 「よし」 『天野』と書かれた表札を見る。 間違いない。 翼がずっと探していた人をようやく見つけた。 一月程前に出した手紙の返事は「会いたい」という一言だけで、この町までの切符や幾らかのお金が同封されていた。明らかに通常の手段とは異なる方法で届けられたソレを見て翔は、この人が翼の探していた魔法使いの女の子に違いないと確信し、ここまでやってきたのだ。 いずこかへと行ってしまった登山リュックの捜索も一時止め、着の身着のままでの訪問。 慣れ親しんだ感触だけに無いなら無いで違和感が強い。 呼び鈴を鳴らし、待つこと数秒。 「はい」 聞こえてきたのは変声期も迎えていない男の子らしき声だった。 「先月お手紙を出した藤堂 翔です。遅くなりましたが、今日会う約束を――――」 「少々お待ち下さい」 にべも無く言葉を切られ、翔は頬を掻いた。 予定より大分遅れてしまったので怒らせたかもしれない。 御伽噺にでも出てきそうな造りの門を眺めながら、翔はどうしたものかを考えた。手を繋いだままの名も知らない女の子をどう紹介しよう。というよりただ会いたいというだけでここまで来て、その後を何も考えていなかった。 荷物さえ見つければ適当な所で野宿は出来るが、とそこまで考えて止めた。 実際に会ってみて、話したいと思った事を話せばいい。その後もなるようになる。とりあえず行動するのが一番だ。 そこで、門が何かを巻き込むような音を立てて開いた。 少しして姿を現したのは黒縁の眼鏡を掛けた男の子。 「お待たせしました」 少年は睨む寸前のような目で翔を見、手を繋いでいる女の子を見て眉を潜め、 「お入り下さい」 およそ客に対するものとはかけ離れた声で言って、そそくさと中へ戻っていく。しかし翔はさして気にした風もなく、 「ねね、君も魔法使いなの?」 中へ入ってそう聞くと、今度は髪を振り乱してこちらを向き、明らかに敵意の篭った目で翔を睨み付けた。 「軽々しく魔法だなんて言わないで下さい」 「え?」 「神秘は人の常から離れているからこそ神秘たりえるのです。そうして魔法だなんだと他者へ口外すればするほどに力は弱まってしまう。だから魔法使いは自分が魔法使いだとは決して名乗らないんです………まったく、なんでそんなことも知らない人を」 聞いたことがあるようなないような説明に首を傾げると少年はますます腹を立てて何かを言おうとするが、横合いから何者かに捕まれて視界から消えた。 「歩くぅ〜ん? お客様に失礼なこと言っちゃだめでしょ?」 横を向くと、いつの間に現れたのかパンツスーツ姿の女性が少年を後ろから抱きしめるようにして立っていた。細身で、長身の部類に入る翔よりやや身長が高い。 艶やかな長い黒髪に、優しさを帯びた瞳。 「はじめまして、天野さん……で合ってますか?」 「えぇそう。はじめまして、藤堂 翔くん。お手紙ありがとう。とても会いたかったの」 年齢は27だと聞いていたのだが、思っていた以上に若々しい。 そよ風のような響きの声は聞いていて音以外の何かを感じさせる。彼女が大成した魔法使いなのかと思うと、心臓が大きく鼓動した。 翼から聞いていた魔法。 結局彼は最後まで使えなかったが、伝え聞いた内容をヒントに翔はまがいなりにも魔法を使えるようにはなっている。だが、それが本当に魔法といわれているモノと同じなのか、未完成なのか、それさえ分かっていない。 「養子って書いてあったけど、雰囲気がすっごく翼くんに似てる」 なつかしむような、悲しむような、そんな目に見つめられて翔は思わず笑みが出た。 そっと手で頭を撫でられるが特に抵抗はしなかった。 そこでふと、繋いでいた手に力が篭った。女の子がした事だと気付いて後ろを振り向くが、見えたのは白のフードだけで顔は俯かせたままだった。 「どうかした?」 翔が覗き込もうとすると、彼女は身を寄せてきて背に顔を押し付ける。 「その子、彼女さん?」 初めて気付いたように天野が聞くと、握られている手に一層力が篭った。 「え? あぁ、違います。事情があって」 「そう…ごめんなさいね入り口で話し込んじゃって。中で話しましょ。歩、準備お願いね」 「はい」 そそくさと去っていく歩から視線を外し、天野は先を促すようにして前を歩き出した。 なんというか、上品なお姉さんといった感じだ。 それを見送ってやや距離が開いた所でようやく女の子が背中から離れ、翔は心配そうに空いている手で頭を撫でてみた。 「ここはさ、俺の養父が昔知り合いだった人の家なんだ。さっきも見たから魔法は分かると思うけど、あの人は俺とは違って本当の魔法使い。話、長くなると思うけど、興味無いならここで待っててもいいし、どうする? 待ってる?」 聞くと、白のフードがふりふりと左右に揺れた。 行くということらしい。そこで翔は更に一つ。 「名前、聞いていいかな。流石に名前も知らない人連れてきました〜とも言えないしさ。俺の名前は藤堂 翔。って、さっきも言ってたけどさ」 「………」 「ね?」 「……香奈」 「香奈か。苗字は?」 「……香奈」 「ん〜、なら香奈でいっか。行こう、香奈」 手を引ひくと、おずおずとだが香奈は歩き出した。 事情も話さず、まともに会話も出来ない、そんな人物を普通ならどうするだろうか。良くて警察なり病院まで連れて行く。悪ければその場で別れて記憶からもすぐ消してしまう。 だが翔は自ら手を引いて、彼女と行動を共にしている。 藤堂 翼の息子。 藤堂 翔とは、そういう性質だった。 ※ ※ ※ 連れてこられた客間で出されたミルクティーをぎこちなく啜りながら、翔は左側へ目線をやる。横長のソファには翔と香奈が二人で座っていた。香奈はフードを目深に被ったまま俯き、一言も発さず、しかし常に翔の傍から離れようとしない。 相変わらず二人の手も繋がれており、対面の天野は終始楽しそうにそれを眺めている。 「…………そっか、やっぱりあの火事に巻き込まれて」 十年も前に起きた、広大な住宅街を丸々焼き尽くした大火災。当時はテロか大規模な犯罪組織による犯行か、はたまた組の抗争から発展したのか、などと様々な憶測が流れ、しばし全国のニュース番組を賑わせた事件だ。 結局それらにも明確な証拠が見つからず、未だに原因不明とされている。 ただし、とても自然発生したとは思えない現象に最近になって宇宙人が攻めてきただのという特集まで組まれていた。 「でも………そうね、人助けに火の中飛び込んでいった。なんて、翼くんらしいといえばらしいのかな」 「本人はさっぱり記憶になかったそうなんですけどね。でも、助けられた人がオヤジの治療費から何まで面倒見てくれてて、その人は俺にもよく当時の話を聞かせてくれました」 町の有力者だったらしいその人が居たからこそ、翼は元気になれたんだと思う。もしそうなっていなければ、翔も今ここにこうしてはいなかっただろう。 「瀕死状態で病院へ運び込まれたオヤジは、それから七年間……ずっと意識不明だったそうです」 しばし、無言。 きっとその間も天野はオヤジを探していたのだろうと思う。だが大勢の被災者を抱えきれず近隣の病院に怪我人が分散され、そこから翼は更に良い病院へとの計らいで怪我が落ち着くや輸送されてしまっていたのだ。 結局目覚めるまで見つけ出されることは無かった。 「ようやく目を覚ましたかと思えば、火災の後遺症か長期意識不明の影響か、記憶がかなり混濁していました。何故かはわかりませんが、魔法についてはオヤジの記憶がはっきりしている事が多くて、俺はそこから魔法を学んでました」 「貴方も、魔法が使えるの?」 幾分、天野の語気が強かった。 「……はい。と言っても、俺はボケたオヤジから漏れ聞いた程度で、本当にアレが魔法なのかさっぱりで。それに五回に一回成功すれば良い所ですよ」 「それでも神秘を感じ取れるというのはすごい事よ。ねえ、翔くん。良かったら私に弟子入りしてみない? 館で鍛錬を積めば、もっと感応性が高くなって、より強い願いも届けやすくなる。なんだったら今から行くだけ行ってみない?」 「本当ですか!? こちらからお願いしたいくらいです!! あ・・・・・でも今は、ちょっと・・・・」 香奈を見る。 「落ち着いたら、その時改めてお願いします」 「そう・・・・ううん、そうね。こちらはいつでもいいから、その子を大切にしてあげて」 何事も中途半端には出来ない。 複数を同時にこなせるほど器用ではないし、そこまで頭も回らない。シンプルに考えて、目の前にある事から順番にこなしていく方が翔は得意だ。 弟子になるのならいつだってなれる。 翔は一度ミルクティーで口の中を湿らせ、気持ちを改めた。 まずは養父の、翼の話をしっかりこの人に伝えるべきだ。 「それで、話の続きですけど」 手紙を出すにあたって、翔と翼との経緯は伝えてある。 同じように天涯孤独となっていた翔を拾い、戸籍の登録までして親子になった。既に二十を超えた年齢ではあったが、七年を意識不明で過ごした彼とはむしろ親友のような付き合いだった。 「俺を拾ってから、オヤジの記憶を頼りにあちこち二人で回ってました」 「学校にはいかなかったの?」 「中学を卒業してからはまったく。行く先々で二人して短期の仕事を探したり、田舎だと適当な人に頼み込んで分けてもらったり、あるいは釣りとか猟とか山菜取りとか」 「随分……活動的だったのね」 「ははは、半分はオヤジの趣味ですよ。記憶が曖昧なのをいい事に、時々変にボケで馬鹿やりだすんですから。松茸を食べれば記憶が戻る気がする、とか適当な 事言い出したり。俺のおやつ勝手に食べといて忘れたふりしたり、都合が悪くなるとすぐにボケ老人になるんですよアイツは」 「でも、元気にやってたのね」 「えぇ…………はい!! それで三年くらい二人であっちこっち回って、でも、つい三ヶ月前に」 最後まで馬鹿みたいに空に憧れてて、魔法を教えてくれた女の子の事を嬉しそうに話してて、二人して必死に魔法を使おうとして、でも出来なくて。 朝テントの中で目が覚めたら、隣で翼が死んでいた。 原因は、吐しゃ物が喉に詰まっての窒息死。 苦しかっただろう。辛かっただろう。 徐々に身体が弱っていたのは医者から聞かされていた。右足は義足だったし、肺なんて火災時に吸い込んだ熱でやられてて、それ以外だって沢山負傷を抱えていて、本当なら安静にしているべきだったのに。 それでもあの三年が、翔には必要だった。 あれが無ければ、翼より先に翔が死んでいたと思う。 きちんと言わなくては、そう思っても、言葉が上手く出てこなかった。この人だけには伝えないといけないのに。 「ねえ、ここを探し当てたのって、もしかして君が魔法を使ったの?」 言いよどんでいると、それを察してくれたのか天野からの問いが来た。 「そう……です。オヤジの葬式が終わった後に、突然」 「感じられるようになったのね」 「はい。それで、オヤジがずっと持ってた首飾りから声が聞こえて。あぁ、コレって天野さんから貰ったものなんですよね?」 服のポケットから取り出したのは、鳥の翼を模した木彫りの首飾り。紐は皮製で、やや崩れた形から見て手作りなのが伺える。よく魔法使いの女の子から貰ったんだと自慢された事からしても、彼女が作ってオヤジに渡したのだろう。 オヤジはずっとその女の子を捜していた。 約束があるからと、それだけは明確に記憶に留めていた。 天野は翔から受け取った首飾りを信じられないモノを見るように驚きの表情を浮かべて、そして、とても大切そうに抱えて、 刹那――――冬の湖面の如き静謐さが室内に満たされた。 翔は目を見開いてその様子を感じ取る。 集中するまでもなく感じるこの神秘は、間違いなく本物の魔法使いによる魔法だ。呼吸も忘れてそれに見入り、初めて体感する本当の奇跡に鳥肌が立つのを感じた。 ずっと静かで、ずっと綺麗。 扱う人でここまで変わるのかと思えるほどに天野の魔法は洗練されている。 「…………そう」 やがてオヤジの願いを聞き終えたのだろう、天野は首飾りをゆっくりと机に置いた。 その表情は寂しそうで、苦しそうで、翔は思わず目を逸らした。 「オヤジが覚えていた『天野』という名前と、その魔法を頼りになんとか」 「…………………………苗字、だけ?」 「はい。主に名前で呼んでいたと言ってたんですけど、どうしてもその名前が思い出せなかったそうです。最初は丸々覚えてなくて、本人は木に頭打ちつけてどうにか思い出そうとしたんですけど」 「そ、それは止めてあげなくちゃ…………でもそれで苗字は思い出せたのね」 「いえ、そんな大切な人の名前忘れてるんじゃねえよと俺が後ろから頭部を蹴り飛ばしたら日常の記憶が曖昧になっちゃって。その代わりに苗字と魔法についての記憶が幾らか戻ってきたそうです」 「そう………なの……………うん」 困った顔をする天野を見て翔は首を傾げた。 どこかおかしな点でもあっただろうか、と。 「そういえば、私ちゃんと名乗って無かったわね」 「あぁ、そういえばそうでしたね。オヤジの馬鹿が忘れてた魔法使い様の名前、俺も知りたいです」 言うと、天野は位を正してこちらを見た。 幾分緊張しているように見えるのは間違いではあるまい。 「私は――――天野 唯、っていうの」 それが、魔法使いの名前だった。
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